平成最後の夏、僕こと矢野碧(やの あおい)は、親友の中山水樹(なかやま みずき)を殺した。
明確な殺意があったというわけでは、ない。悪意は、あったのかもしれない。そして気が付いたら、水樹は死んでいた。
僕に殺される寸前の、親友の顔が脳裏にこびりついたまま離れず、壊れたビデオみたいにその瞬間だけが、何回も何十回も何百回も何千回も、僕の頭の中をループし続ける。
水樹はその顔を苦しみに歪ませて、必死で僕に助けを求めた。僕に命乞いをした。でも僕はそんな彼女を見て、狂ったように笑っていた。その心には、不思議と悲しみは湧かなかった。
「水樹、ちゃん」
僕は呟いた。
「……ごめんね」
悲しくはなかったけれど、とりあえず口にしてみる謝罪の言葉。
水樹は、死んだ。
あんなに、生きたいと言っていたのに。
死にたくないと、叫んでいたのに。
僕の目の前にあるのは少女の遺体。チューブを抜かれて命を断たれた、病気だった少女の遺体。
彼女の命が戻ることは、もう二度とない。彼女があの輝くような笑顔を見せることは、二度とない。
僕は平成最後の夏に、一人の少女を葬った。
平成という時代の、ひと夏の思い出とともに。
「碧さんは、なぜ一人称が『僕』なの?」
高校に初めて上がったとき、水樹はそう、僕に自ら積極的に話しかけてきたんだ。
僕は答えたものだった。
「ん、何となくだよ。それよりも『俺』の方が良かった? ちなみに『私』は無しね。気取ってるって思っちゃう」
「そう?」
水樹は首をかしげて不思議そうな顔をした。でも単純な彼女はそれ以上突っ込まずに僕に手を差し出して、綺麗な歯を見せて笑った。
「ま、いいや。あたしは中山水樹! これからよろしくね、碧!」
僕をいきなり呼び捨てにした彼女。
以来、僕らは親友となる。
水樹が病気になったのは、それから一年後のことだった。
原因はわからない、対処法もわからない。それでもその病気は確実に水樹の命を奪っていった。
水樹の大親友たる僕は彼女の病室に何度も見舞いに行って、そのたびに水樹は満面の笑顔を見せて僕を迎えてくれたけれど、会うたびに彼女は細くなっていっているように僕は感じた。彼女の命が失われようとしているのがわかった。僕はそれが怖くて、だから彼女を毎日毎日見舞いに行って、励ましの言葉を掛けたんだ。病は気から、と云う。ならば気を強く持てば、そんな病なんて治るんじゃないかと、僕は半ば願うような気持ちでそう思っていた。
でも、でも……。
「あたし、幸せになるんだ」
ある日、水樹がそんなことを僕に言った。それを聞いた時、僕は我が耳を疑った。
水樹は楽しそうに、全身をチューブにつながれたまんまで、僕に言うのだ。
「あたしのママ、再婚するの。あたしにパパができるの、あたしに家族ができるの」
それは僕のもとにはまだ訪れていない、幸せ。
水樹も僕も母子家庭で、両親は幼いころに離婚して水樹も僕も父親というものをよく知らない。似たような境遇だった、似たような傷を互いに抱えていた。だからこそ僕らは親友になれたのかもしれない。互いに似たような傷があるから、それを舐め合うような関係で。
でもその日、水樹の傷は癒えた。水樹は僕と同じではなくなった。水樹は、水樹は、幸せになったのだ!
幸せではない、僕とは違って! 幸せにはまだ程遠い、この僕とは違って!
水樹も僕も同じはずだったのに、同じ傷を持っていたはずだったのに、
水樹だけが、幸せになる。
その時感じた激情を、劣情を、狂いそうになるほどの憎悪と渇望を、僕は言葉で表すことができない。
親友だったはずなのに。
僕は水樹が、憎かった。
それ以降、会うたびに水樹は新しい家族の話を僕にするようになった。水樹自身に悪意はないのだろう。でもそのたびに僕の心は刃で切り刻まれたように激しく痛んで血を流し、流した血から、憎悪や悪意が生まれて僕を蝕んでいった。
親友だったはずなのに。
相手の傷が、消えた今。舐め合う傷が、消えた今。傷を抱えるのが、僕だけになった今! 憎い、憎い、憎い! 僕を差し置いて幸せになった水樹が、親友だった水樹が、僕は憎くてたまらなくなった。
友情なんて、こんなものさ。呆気なく崩れてしまうものなんだ。
笑う水樹、輝くような笑顔を向けて、夢を語る、水樹。
何故だろう、親友だったはずなのに。
僕はその笑顔を、壊してみたいと強く感じてしまったんだ。
僕を差し置いて、この僕を差し置いて、水樹だけが幸せになるなんて、許せなかったから。
「あたし、弟ができるんだ」
楽しそうに笑った水樹。全身にチューブをつながれて、辛うじて生きているという状態で。よく笑えるな、と僕は冷めた頭で思った。よく笑えるよ、今にも自分が死にそうなのに。よく笑えるよ、君の親友はいまだ、不幸なまんまなのに。――よく、笑えるよ、水樹。
水樹は楽しそうだった。あくまでも楽しそうだった。
「十六歳下の弟だよ? あたし、しっかりお姉ちゃんになれるかなぁ。名前どうしよっかって、今、みんなで考えているの。碧も考えてよぉ、何か、とっても縁起の良い名前!」
水樹は無邪気だ、無邪気ゆえに、人の心がわからない。
今、僕の心には、凍えきった猛吹雪が吹き荒れているというのに。
だから僕は、気が付いたら衝動に任せて、水樹のチューブを抜いていた。ぶちぶちぶちっと音がする。間もなく看護士さんがやってくるだろう。僕は入り口にしっかり鍵を掛けて、椅子などを積み上げて病室にバリケードを張った。そうやって時間稼ぎをした。
水樹は驚いた顔を、そんな僕に向ける。
「なっ……! 碧、何、するの……?」
僕は、答えた。
「何って……水樹、君を不幸にするためだよ」
同じ傷を舐め合ったのに、水樹だけが幸福になるなんて許せない。
激情が、劣情が、憎悪が、渇望が、凍えきった僕の心を狂ったように吹き荒れる。
僕は、笑っていた。
「は、ははっ! 水樹、水樹! 不幸になりなよ、不幸になれ! 僕と同じように、いまだ救われぬ、僕と同じように! 不幸になっちゃいなってば、水、樹……!」
チューブを抜かれて、命をつなぐチューブを抜かれて、水樹の顔が苦しみに歪む。ああ、その顔だ、その顔だよ! 苦しみに歪んだ、その不幸な顔! 母子家庭で生きる僕が浮かべる、傷を抱えた不幸な顔! 水樹に幸福なんて似合わない! 水樹は僕と同じだ、僕が幸せになるまで一生、不幸でいればいいんだ!
水樹は苦痛の中で、一生懸命に声を絞り出した。
「お願い、碧……。あたし、生きたいの、死にたくないの、弟がこれから産まれるの、その顔を見るまではまだ……!」
命乞い。あんなに幸せそうに笑っていた水樹が、必死の形相で、命乞い。
でもその言葉が、「弟が産まれる」という言葉が、ますます僕の感情を強くさせ、凍えさせると君はわからないのだろうか。
「勝手に死ね」
僕はそう、呟いていた。
「不幸になれば、いい。幸せから堕ちて、不幸になれば、いい!」
ああ、何というエゴ、何という自己中心、人のなんと、醜いことだろう。
でも僕は溢れ出すこの黒い感情を、止められなくて。
「開けろ!」病室のドアの外からはそんな声がする。このバリケードが破られるのも時間の問題だ。
でもその前に、水樹は確実に死ぬだろう。
「助けて……。親友、でしょう……?」
ベッドから、伸ばされた手を。
「どこが」
僕は無情にも撥ね退けた。
水樹の顔が絶望に染まる。
こうして僕は水樹を殺した。
平成の夏が終わる。平成最後の夏が終わる。
平成最後の夏、僕はその一瞬の季節とともに、親友と呼んでいた存在を葬った。
この傷は、絶対に消えない。僕はこの傷を一生背負ったまま、生きていくのだろう。
うだるような夏の午後、僕は青い青い空を見上げた。
――明確な殺意があったというわけでは、なかったんだよ、水樹ちゃん。
君が幸せになったのが、悪いんだ。
蝉の声も波の音も、どこかから聞こえる涼やかな風鈴の音色も、全て、僕の耳には届かない。
壊れたビデオテープ。
僕の耳には、消えることのない水樹の命乞いの声が、永遠にループしながら響き続けていた。
夏の白い砂浜に、僕のお下げにした髪が映り、揺れ動く。
もう、水樹は、いない。僕が、殺した。僕が、葬った。
水樹の命乞いの声をBGMに、平成最後の夏が過ぎようとしていた。
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主人公たちの性別を工夫したのはあえてです。小説だからできるトリック、挑戦してみましたがいかがでしょうか。
夏という季節には特別な感情を抱きます。夏というのは鮮やかで美しくて儚くて――そしてどこかに狂気を秘めている。
「いつ」「誰が」「何を」「どうした」と、多くの状況が埋まっている中で、「どこで」「何故」を考えるというのは新鮮で楽しかったです。素晴らしいお題をありがとうございました。