Re: 第8回 一匙の冀望を添へて、【小説練習】 ( No.267 )
日時: 2018/08/13 22:20
名前: 浅葱 游◆jRIrZoOLik (ID: mc/NAfs.)

 平成最後の夏、僕こと矢野碧(やの あおい)は、親友の中山水樹(なかやま みずき)を殺した。思っていたよりも呆気なかった。それでも寂しさがこみ上げてくる。僕は泣いた。涙が枯れるんじゃないかってくらい、大きな声で、みっともなく。

■蟻

 アイスを地面に落とした時に思う残念さと、それはよく似ていた。
 暑い夏の日だった。太陽は高く、外で遊んでいた僕と水樹の肌を焦がす。ママに持っていけって言われた帽子と水筒は、自転車のカゴの中に置き去りだ。
 朝早くから出て行った僕に、ママは「宿題もしなさいよ」と呆れていた。でも宿題は終わっている。たった三週間ちょっとの夏休みだ。めいっぱい遊ぶために、宿題は二日で終わらせた。残っているのは自由研究と絵日記だけ。

「水樹、あっち、行こう」
「いいね」

 公園の芝生の上を、自転車を押して走る。水樹は足が速くて、僕は追いつくのに精一杯だった。口でめいっぱい息を吸い込む。けど、吸っても吸っても、息が出ていってしまうばっかりで、だんだん苦しくなった。小さな丘の上まで必死に走り、自転車を横倒しにする。
 水樹は丘のてっぺんにいた。大の字で空を見上げている姿が、とてもきれいだった。水樹の横顔に見惚れる。そっと水樹に近づいて、同じように横になって空を見上げた。太陽は高くて、大きく目を開けることができないくらい、ギラギラと光っている。
 僕と水樹はそのまま黙って寝転んでいた。ちょびっと眠たくて、僕は目を閉じる。カサカサの唇が、ちょっぴり痛かった。

 目が覚める。口の中がからからで、すぐに喉が渇いたと思った。顔がじんじんと痛む。

「水樹」

 欠伸に引き続いて発生する涙を、Tシャツの裾で拭う。白地にこんのボーダーが入った服が、じんわりと色濃く変わった。

「水樹……?」

 丘に停めていた二台の自転車。それが黒色のマウンテンバイクだけを残して、何も無くなっていた。前輪に添えられた僕の水筒と帽子に、僕の自転車を水樹が乗ってったのかもしれない、そう感じる。丘の裏にも、だだっ広い公園のどこにも水樹の姿はない。
 途端に不安になってしまって、地に着いた足裏がふわふわしている感覚に襲われる。もし事故にあっていたら。もし誰かに誘拐されていたとしたら。嫌な考えが沸騰した水のように際限なく浮かんでいく。そのどれもが、嫌な結末だった。
 急いで丘のてっぺんに戻り、帽子を被って、マウンテンバイクについていたホルダーに水筒を入れる。僕が普段乗っている自転車よりも少し高いサドルを跨ぎ、凸凹の丘を滑り下りた。

 青色の信号機。住宅街の細道を飛ばす車。散歩しているおじーちゃん達。舌を出して歩く犬。十字路で轢かれそうになっても、自転車のスピードは緩められない。丘の公園から必死にペダルを回して、家の前に自転車を停める。いつもママに「ちゃんとガレージにしまいなさい」と言われているけど、そんな余裕は無かった。
 乱暴に玄関を開け、リビングへ向かう。靴は揃えず、帽子は廊下の途中で投げ捨てた。薄茶色のフローリングを走り、リビングでテレビを見ていたママを見て、涙があふれた。

「ママ、ママ。水樹がどこにもいないの、一緒に丘にいたのに、起きたらどこにもいなくて、僕の自転車もなくて、どこにいるのかも分かんない」
「碧、大丈夫よ。落ち着いて」
「僕がちゃんとしないとダメなのに、ママどうしよう、水樹のパパに怒られちゃう」

 ママの言葉が分からなかった。何が大丈夫なの、何も大丈夫じゃないのに、なんで大丈夫だよって僕に言うの。落ち着いて何が解決するの。ぼろぼろと涙をこぼしながら、困った顔のママを見てそう思った。ママは何も分かってくれてない。水樹のパパが怖いことを知らないから、大丈夫なんて言えるんだ。
 僕のことをママがぎゅって抱きしめてくれる。あったかくて、それがもっと苦しくて、涙が止まらない。どれだけ泣いたって仕方がないのに、ママの背中に目いっぱい腕を伸ばして、涙があふれなくなるまで、ママも僕を抱きしめてくれた。


「水樹くんのおうちには、明日行こうね。ね、碧。それでいい?」

 ママがそうやって優しく言うから、僕は頷くしかなくて、目の涙が出るところが痛くなるくらいTシャツで拭った。僕の頭をママは優しく撫でてくれた。そのママの手を握って、一緒にガレージに向かう。パパは出張でいないから、いつもパパの車が入っているところに水樹の自転車をしまった。仮面ライダーの水筒をホルダーから取って、家に戻る。
 冬よりもぬるいお風呂に浸かって、“60”を三回数えたら、お風呂を上がる合図。明日水樹は僕の家に来るかな。明日は僕の家でかくれんぼをする約束だから、水樹が来ないと僕は鬼になれない。ママに髪を乾かしてもらってから、真っ赤なほっぺにアロエのジェルを塗ってもらった。ひんやりしたアロエのやつは、すごく気持ちがいい。

「碧、もう九時になるから、寝なさいね」

 絵日記を書き終わって、ママと一緒に見ていたアニメが終わったところで、ママに言われる。いつもより少し早い時間だけれど、疲れてうとうとしていたから、僕は素直に従って自分の部屋に戻る。やわらかいベッドに寝転んで瞼を閉じたら、何も分からなくなって、全部が真っ暗になった



 太陽は高く昇っていた。手に持っていたアイスは地面に落ちて、蟻が集まってきている。汗がぽたぽた落ちる。水樹はまだ来ない。いつもならとっくに来ている時間なのに、どうしたんだろう。蟻が列を作って行ったり来たりしていた。水樹の自転車も出して待ってるのに。お昼が終わりそうだ。自転車のハンドルを握って、僕は水樹の家に向かう。
 歩いても遠くない距離を、僕たちは自転車で行き来していた。いつも決まった時間に、水樹が僕の家に来る。そして、三時には水樹の家でお別れをして、僕は家に帰った。いつもが壊れる。それだけで、胸がぞわぞわして気持ちが悪い。

 三つ目の交差点を左に曲がって、二軒目。くすんだ木の壁に錆びた青色の屋根、白いカーテンが閉まった家。木の表札には中山の文字がある。家の脇には、僕の真っ赤なマウンテンバイクが倒されていた。自転車を停めて、擦りガラスの扉を二回叩く。少し待つと、疲れ果てた表情の、水樹のママが出てきた。僕を見て、泣きそうな顔をしたと思ったら、キッと眉毛を釣り上げて、眉間にしわを寄せて、一発。

「あんたのせいよ!」

 頬に感じた鈍い痛み。咄嗟に手で頬を触ると、ジンジンと痛んでいるのが分かった。

「あんたが水樹の友達じゃなかったらよかったのに! 水樹のためにあたし達がどれだけ手をかけてやって、どれだけ大変な思いしてるのかも分からないくせに……。金持ちの家の子と遊んでる水樹が、近所で陰口言われてることだって知らないガキが来るんじゃないわよ!」

 泣いていた。けれどその顔は、僕の顔面に向かって飛んできた靴から身を守ったせいで少ししか見ることができなかった。肩で息をする水樹のママの奥から、辛そうに壁に手を付けて立つ水樹が見える。水樹のママ越しに、目線が合った。

「何も、わかんない。けど、碧は、悪くないよ」
「二度と水樹に関わらないでちょうだい!」

 水樹がにっこりと笑う。今度は僕の体に向かって、砂ぼこりで汚れた靴が飛んできた。

「碧、ごめんね、自転車」
「ちょっと水樹! 誰の許可とってこっち来てんのよ! 今すぐ戻りなさい!」

 髪を引っ張られて連れて行かれる水樹が、最後に僕を見て笑う。

「ばいばい」

 にっこりと笑った。廊下の奥で背中を蹴られた水樹の姿を見て、僕は逃げるように水樹の自転車に跨ってペダルを漕いだ。バランスを崩して真横に倒れて、膝が擦り剝ける。下敷きになった右足が痛い。怖かった。涙が止まらない。明らかな敵意だった。水樹のお母さんは、僕のことが大嫌いなんだって、知ってしまった。
 それでも水樹は笑っていた。何も分かんない。僕と水樹だけしか伝わらない言葉で、寂しそうに水樹は言う。ばいばいと笑った水樹の顔が、こびりついて仕方なかった。



 茹だるような暑さを連れてきた平成最後の夏。翌日のニュースも新聞も全部見出しは同じだった。僕は家に帰って泣いた。涙が枯れるくらい、もう泣くことなんてできないくらい泣いて、喉が痛くて、苦しかった。僕は泣いて泣いて、ママに心配されても教えられなかった。僕が水樹を殺したことも、最後に水樹が笑っていたことも。腫れた頬の原因だって、何も話せなかった。
 僕は昨日と同じように水樹を待つ。溶けて地面を汚したアイスに、蟻が集まる。行儀よく並んでアイスに集まる姿が、水樹のまじめさを表しているように見えた。一匹、列に並ばない蟻をアイスの棒でつぶして、殺す。大切な親友を殺した寂しさは、アイスを地面に落とした時に思う残念さとよく似ている気がした。


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