Re: 第8回 一匙の冀望を添へて、【小説練習】 ( No.273 )
日時: 2018/08/16 19:24
名前: 鈴原螢 (ID: ZAVFdAF.)

平成最後の夏、僕こと矢野碧(やの あおい)は、親友の中山水樹(なかやま みずき)を殺した。

「私、結婚することになったの」

ゴトッと低い音をたてて僕が持っていたコップが床に落ちた。ココアが注がれていたコップは、床に落ちた衝撃でバラバラに砕けてしまった。熱々のココアがフローリングの床に溢れて広がる。僕の素足にまでココアが広がってきても、僕は立ち尽くしていただけだった。
それを見た水樹は、しゃがんで床に散らばったコップの破片達を素早く手に乗せ、ゴミ袋に入れた。どんな表情をしていたかは見えなかった。どんなことを思ったのかも分からなかった。めんどくさい奴だと思われただろうか。僕は自分がどう思われているかで頭がいっぱいになっていた。

いつもそうだ。相手の顔色を伺って、嫌われないようにすることばかり考えて行動していた。今だって、そんなことを考える暇があったら溢れたココアを拭くのを手伝えと思うのだが、体は思うように動かない。水樹の白く細い手に陶器の破片を持たせるなんて危ない。そもそも自分がやった不始末なんだから自分で片付けるべきだ。頭はそう思うのに、体は動かない。こんな僕を、水樹は嫌うだろうか。

「お父さんがね、この人と結婚しなさいって。」

頭に水樹が男と腕を組んで幸せそうに微笑んでいる絵が浮かぶ。きっと相手の男は、僕と違って自分がやった不始末は自分で対処できる男なのだろう。自信に満ち溢れ、堂々とした格好いい男なのだろう。反射的に自分と正反対の男を想像するのは何故なのだろうか。
お父さんに選んでもらった人は、君が選んだ人じゃない。本当は仕方なく結婚を決められたんじゃないの。そんなことを考えるが、結局僕には何もできないんだ。決められた結婚から背いて彼女の手を取り逃げることも、逃げきる自信も無い。間藤さんがいるからダメなんじゃない、僕だからダメなんだ。彼女を幸せにすることなんて、僕はできない。少なくとも、決められた結婚相手は僕より彼女を幸せにできそうだ。

「…婚約者がいるなら、ひとつ屋根の下で二人きりなんて、良くないんじゃないの。」

よりによって、好きな人の結婚報告を聞いて第一声がこれかよ。もっと「おめでとう」とか、そういう台詞は思い浮かばなかったのか僕。

「良くないに決まってるじゃない。でも、二人きりじゃないから大丈夫。」

彼女はそう言って、部屋のドアを開けた。すると背の高い男が出てきた。独り暮らしにしては広い部屋で、部屋がひとつ余っているとは聞いていた。でもその部屋から、まさか婚約者が出てくるとは思わなかった。いつからそこに居たんだ。もしかして、もう同居を始めているのだろうか。

「間藤栄治(まとう えいじ)さんて言うの。」
「はじめまして、水樹さんの婚約者の間藤です。」

いざこうして間藤さんという好きな人の婚約者を見ても、僕の彼女に対する恋心は微塵も色褪せず、揺らがなかった。どうやら僕の初恋は、コップのように簡単には砕けないようだ。

***

「水樹!」

病室のドアを勢いよく開けて、目の前に飛び込んできた真っ白なベッドの上で眠る彼女の顔は、青白く具合が悪そうだった。僕が今こうして仕事を途中で切り上げて病院に駆けつけたのは、他でもない、水樹が事故に遭って病院に搬送されたと聞いたからだった。

「水樹は…」
「しばらくすれば目が覚めるだろうと医師は言っていました。」

先に来て水樹が眠るベッドのすぐ側の椅子に腰掛ける間藤さんがそう言った。間藤さんの目は赤く腫れていた。
彼女は真面目な人だった。青信号がチカチカしていたら絶対に渡らなかったし、ちゃんと右左確認した。運転中に居眠りするような事もしなかった。そんな彼女が事故に遭うわけ無い。誰かが悪意を持って彼女を事故に遭わせたのだ。きっとそうだ。そうに違いない。誰だ。誰がこんなことしたんだ。見つけたらただでは済まさないぞ。一生普通の生活が出来なくなるようにしてやる。生きたまま四肢を引き裂いて、内蔵を引きずり出して、死ねない苦しみを味わわせよう。

「…ここは、どこ?」

唐突に水樹はパチリと目を見開いてそう呟いた。

「水樹っ!」

僕は思わず間藤さんが居ることを忘れて水樹に抱きついた。
よかった。本当によかった。生きてくれただけで、それだけで充分だ。

「碧…」

僕の名前を呼んで水樹も抱き返してくれた。ここで水樹が「ちょっと、間藤さんが居るんだから…」なんて言ってくれたら僕は我にかえって水樹から離れただろう。でも彼女はまるで僕のことだけを見ているかのように抱き締めてくれた。僕と同じ気持ちなのだとすら思った。

「水樹さん」

間藤さんが明らかな嫌悪感を声音と顔に出しながら水樹を呼んだ。そこで僕はやっと今の状況がよくないことに気づき、少し名残惜しいが渋々水樹から離れた。
水樹は間藤さんの方を振り向くと、不思議そうな顔をして言った。

「誰?」

彼女は記憶喪失になっていた。僕以外の事を忘れてしまったのだ。つまり僕のことだけを覚えていてくれたのだ。親すら忘れてしまったのに、僕だけが彼女の記憶に残っていた。不謹慎かも知れないが、僕は嬉しかった。僕がそれほど彼女にとって特別な存在だったという証明のようなものを得た気分だった。これを利用して、僕だけを見てくれればいい。自分が覚えている人は一人。つまり味方も一人だけ。そんな状況下の中なら、僕を好きになってくれるはずだ。きっと、ずっと、永遠に。

***

正直、吐き気がするほど嫌だった。碧以外の人と結婚することが。でも誰も私の本心に気づいてくれない。碧でさえも。愛の逃避行、ステキじゃない?でも、私にはそれをするだけの勇気も度胸も資金も無かった。口ではどうとでも言えるけどやっぱり愛だけでは乗り換えられないこともある。だから決めた。私の望まない結婚を押し付けた人間に後悔させてやる。反論も結果も残せなかった自分自身に、私の心に気づいてくれなかった碧に、一矢報いてやる。

私は勢いよく赤信号の横断歩道に飛び出した。キキーッ!トラックの甲高いブレーキ音が最後に聞こえた。碧、死んでもあなたのこと忘れないからね。

***

「私、結婚することにしたの」

ゴキッと低い音をたてて水樹の首は折れた。

「ただいまー…って水樹!おいお前、何してるんだ!その手を離せ!」

玄関のドアから帰ってきた間藤さんはヒステリックな声でそう叫んだ。
うるさい。僕のことを好きになるはずだったのに、僕と結婚するべきだったのに。もう少しで解消しそうだった間藤さんとの結婚を受け入れた君が悪いんだ。もしかして、水樹は僕への恋心も忘れてしまったのだろうか。否、そんなの最初から無かったか。そうだ、僕も最初からこんなことするつもり無かった。いつからだろう。おかしくなったのは。わからない。わかるのは、僕は君の結婚が決まった時よりも、記憶喪失になった時よりも、昨日よりも、今、水樹が好きだってこと。

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初めまして、あさぎさん。(読み方が間違ってたらすみません。打っても漢字が出てこなかったので平仮名にさせていただきます。すみません。)
あのあさぎさんのスレに投稿するなんて本当にいいのか、と思ったのですが、一つ一つの作品に感想やアドバイスを書いてくださっていたので、「いいなーいいなー、私もあさぎさんにアドバイスしてもらいたい」と思って、今回投稿しました。