一番大切な臓器って何だと思う、と君が言うものだから折角見せてあげようとしたのに。
「泡吹いて倒れちゃうんだもんなあ」
棚の中から食器を取り出すように、胸の扉を開いて引っ張り出した心臓を、もう一度体内へと収納した。脈打つようなことは決してない。しかしそれは、心臓として必要最低限の機能を担っていた。僕の体内に、エネルギー源が蓄えられた電解質を溶媒に乗せて循環させる。それによって金属質な僕の身体は動くことができるという訳だ。末端の筋肉に、そして絶えず働いてくれる脳みそというコンピュータに、動力を送り続けるという意味では人間の持つ心臓と何ら変わらないと言えるだろう。
多くの場合、心臓を一突きされれば人間は死ぬ。本当に、あっさり。学問を齧っていれば確かに肝臓が無くなった時の方が替えは効かないと分かるだろう。何せ肝臓がこなしている仕事量は、工業的にしようとすれば工場がいくつも必要なほど膨大だ。
けれども考えてごらんよ。肝臓をちょっぴり傷つけたところで、別段死には至らない。自己修復能があるからね。でも、心臓の刺激電動系をちょっぴり傷つけるとしよう。するともう、心臓は動いちゃくれない。永遠にだ。そしたら全部の臓器がおしゃかだね。
何々、心臓が壊されても人工心臓があるだろう。人工肝臓は無いけどな、って? 馬鹿を言っちゃいけないよ。在りはすれども別段全員が使える訳では無い。数も限りがあるし、つけられる人間も有限だ。お金だってかかるし、今この場で拍動が止まってからそんなものつけてもその前に死んでしまうさ。
誰かの言っている情報だけ鵜呑みにして、知識だけ集めた馬鹿でも無いとそんな発想は出てこないよ。おっと、気分を害したならごめんよ。でもね、振り返ってみてよ、今初めに得意げに肝臓だろうといおうとした君たち、別段優秀な人間から頭がいいねって褒められたことないだろ? というかそもそもレバーを選んだのだって教科書的な知識を見たり、生物学の講師の誇張表現に引きずられただけだろうし。
何々? 膵臓が病気の人は健康な膵臓が何より大事だって? それこそ論点が全く違う。今僕は一般論の話をしているんだ。特殊なケースを持ち出して揚げ足を取ろうとするのは正攻法では論破できないと負けを認めているだけだよ。
それに膵臓が病気で、大切なものが膵臓という者は逆にいないだろうさ。自分を蝕む臓器なんて苦々しいだけだ。一部の奇特な、『やまうちさくら』みたいな人間ならば、膵臓のおかげで自分が自分らしくいられたと誇らしく胸を張るかもしれないがね。
何にせよ、僕の主張は揺るがないよ。君らが如何にかしこまって、この臓器こそが至高だと考えたところで、その臓器が動いているのは全て心臓のおかげだ。君が生まれ落ちてから、死ぬまで、途切れることなく動き続けて、君が最重要だと主張した臓器にも酸素と栄養を行き渡らせている。意識が無くなろうと脳が死のうとも動き続ける。そう言った頑張り屋さんなのさ。
それより僕は、倒れてしまったこの娘を何とかしてあげないとな。気を失ってその場で膝を付いた彼女の背中に手を添え、何とか座らせてみる。肩を揺らして大丈夫かと声をかけても返事は無い。呼吸はあり、首筋で脈を確認するに異常はない。ただ驚いて気を失っただけみたいだ。
全くこれだから人間というのは。
僕の見掛けは、間違いなく人間と瓜二つだ。しかし、触れれば分かる。金属の上に肌の質感を持った皮膜をコーティングしただけの僕の身体は、人間と比べるとやけに冷たい。冷却液が身体を巡っているせいだ。本来は駆動する機械の熱で人よりずっと暖かくなるものだが、それをそのまま置いておくとオーバーヒートを起こしてしまう。それゆえ、僕らは冷たくあることを強要されている。
別段それは冷淡であるべきと強いられている訳ではないんだけれど、何かが欠けている自分には仕方の無い話だ。愛想もにべもあったもんじゃない。街を歩けばそう評される。自分でも理解はしているけどね、あるべき温もりが無いなんて事実は。
ただ、嘆いてたって仕方ない。そもそも僕自身嘆いているつもりはないのだけれど。目の前で泡吹いて倒れてる主人は、日頃やけに悲嘆に暮れているらしい。自分の事でもないっていうのにね。でも、だからこそなのだろうか。この主人に体温があるのは。
ショックを受けて気絶しちゃっただけで、健康に害はない。体温や脈をとってみる限り、そう判断できた。何てったって主のバイタルチェックも僕の機能の一つだからね。データを打ち込み、本部のデータベースにアクセス。そしたら統計を参照にコロッと答えが出てくるってものさ。
首筋に触れる。定期的にその脈が蠢いていた。僕の心臓とは違う。僕の心臓はただただ循環のための水流を生み出す装置。筋肉でなくて歯車やプロペラで構成されている以上、収縮も膨張も必要ない。
だけど主人は、メトロノームみたいにリズムをとり、縮んで伸びてを繰り返す心臓を持っている。無意識でいながらも、厳密に部位によってタイミングをずらして膨らんだり縮こまったりをリピートしている。
誰に課された訳でもなく、自分が望んだ訳でもなく、ただただ己の存在意義を護るためだけに、心臓は今日も働いている。早鐘を打つ日もあれば、怠そうにのんびりリズムを刻むことも。ただ、命じられずとも機械的に動き続けるその様は、僕たちと似たようなものなのかもしれない。死にたいと願う主人のために、心臓は何もできないけれど、僕らはその意向に応えられる。その点ではきっと、僕らの方が優れているだろうけれど。
とするとどうだろうね、もしかしたら心臓はそれほど大切な臓器でもないのかもしれない。
続きます>>
「アンドロイドだからって無茶苦茶しないでよ。死ぬほどびっくりしたんだからさ」
「申し訳ございませんでした」
「謝意が無いのは知ってる。謝らなくていいから二度としないで」
みっともない姿を晒したものだから、照れ隠しもあるのだろう。必要以上に厳しい態度を取りつつ、君はそっぽを向く。謝意が無い、とは言われてもそういう存在なのだから仕方が無い。僕が謝っているのは人間であればこの場面において頭を下げるだろうという判断からだ。確かに申し訳ないとは欠片も思っていないし、そう言った感情が僕にどういった変化をもたらすのかも分からない。
あくまでも人間の猿真似。それが僕たちだ。君がショックを受けて倒れた、そして今や怒っている。とすれば僕の行動が君を不快にさせたのは明確で、多くの場合謝罪した方が真摯だ。それゆえ申し訳ないと告げたものだが、当然所有者である君は理解している。僕の行動は、そう言った統計的に取るべき行動や、合理的な判断に基づいた無難な回答に過ぎないのだと。
「やっぱりアンドロイドはまだ人間になりきれないかな。臓器より何より、ずっと大事なものが足りてない」
「と、仰られますと」
「心の臓、ではなくて。心ってものが足りてないの」
思慮も配慮も足りていない。統計によって行動を支配されている以上、特殊なケースにはまるで対応できない。だからこそ、急に胸の辺りを開いて心臓機関を目の前に突き付けられた人間が卒倒するとは察せられない。機械の臓器だからおそらく大丈夫だなど、あまり強靭と言い難い精神を有した乙女には酷な話だ。
「いい? 心臓が大事と貴方は言いますけどね、そう考えてはならないの。確かに心臓は大事でしょう。その他の器官を支える屋台骨でしょうよ。でもね、それだけあっても何もできないの。貴方は肝だけあっても栄養を供給してくれなければ意味が無いと言いましたね、どうしてそれが心臓も然りと気づかないの。どれが最も大切、ではないのです。腸は胃に代わることはできず、胃もまた肺になること能わないのです。つまり、言いたいことは分かりますか」
「一応理解はしました。今仰せになられた分は」
「ああもう! 違う。私が今言ったことを通して伝えたいことが、よ」
何をこんなに、主人は苛立っているのだろうか。やはり心の機微に乏しい自分には理解不能であり、そうする必要も無い事だ。
こういう時、ただ首を傾げていれば、講釈を垂れ流してくれていると知っている以上、僕はただ苦笑いだけ浮かべて怪訝そうにしてみた。
「何一つとして欠けていいものなどないの。身体というのは、いくつものスペシャリストが集まってようやくメンテが効くっていう事」
「なるほど、欠けていいものなどない。平和主義者のような言葉ですね」
「そのつもりが無いのは知っていても皮肉に聞こえるわ」
「まさか、知っての通り僕に敵対心なんて」
「分かってるから、もうその口閉じて。……どう調教すればいいのかしらねえ」
思い通りのレスポンスを僕が与えられないせいか、また不機嫌になる。そんなに毎日心をささくれさせるくらいなら、さっさと廃棄するなり売却してしまうなりすればいいのに。お気に入りの服を捨てられないみたいな愛着でも湧いているのだろうか。その真相は主しか知りようが無い。
「身体の維持はそうして分業してるの。でも、精神のメンテナンスは心でするしかない。ですから時に、管理が行き届かなくて病んでしまう。飴以上の鞭のせいで、無残にも殺されてしまう。何不自由ない暮らしをしていても、心というのは生きていくうえで潰れてしまいそうなギリギリを彷徨っているのですよ」
「やっぱり代わりなんて」
「どこにもありはしない。一点ものよ。……形が無い分、修繕の可能性は確かに無限だけど」
「壊れる可能性がそれ以上に広がってますね」
分かればよろしいと、満足げに頷く。先ほど黙れと言ったのに僕が話している事は気にしていないようだ。
適当な人だと、今まで何度も下してきた認識をまた繰り返す。そう言えば、伝えねばならぬことがあったことを思い出した。
「主人、少し話が」
「何、聞いてあげる」
「先ほどメディカルチェックをしていたのですが……」
「何? 病気でもあったの?」
軽く青ざめた君だけれど、健康優良児のままだ。風邪さえもひきそうにない。寝不足でも無いし、ご飯もよく食べている。いや、きっとそのせいなのだけれど。
「少し太りましたね?」
「なぁっ!」
「先月と比べて一キログラムの増加です。背丈があまり変わっていない以上、最近の間食がよくないものかと……」
「うるさいうるさい、ほんっと貴方という者はデリカシーってものが……そうね、無いんですものね! 私が悪うございました!」
「はは、しばらく間食は控えめですね」
「分かってるってば、一丁前に愉快に笑わないでくれる? すっごく不愉快!」
おや、どうやら僕は笑ってしまっていたようだ。可笑しいな、そんな事をするつもりは無かったのだけれど。統計的にも、この行いはからかいに属するものだ。僕としては君に注意喚起しようとしただけなのだけれどね。
ああ、そうか。これはマザーのデータベースではなく、僕の頭蓋に埋め込まれた回路が下した結論なのか。可笑しいって、面白いって、楽しいって判断に、表情が引きずられたのだろう。
余計に、笑い声が止まらなくなってくる。
「笑わないでって言ってるでしょ? ああもう腹立たしい……」
いやね、君を怒らせるつもりは無いんだ。きっと僕は嬉しいと感じているのだろう。まだ、自覚は無いけれど。君の望む、感情ある、人間に程近いアンドロイドに近づけているようだからね。そう思えば、歓喜の笑みが自然とこぼれるだなんて、仕方のないことじゃないか。
どこか体の芯に熱がこもるような感覚がした。冷却液はきちんと循環しているというのに、故障だろうか。それともオーバーヒート? あるいは……。
あるいは……。その可能性を考えれば、動くはずのない僕の心臓も、とくんと打ち震えたような心地がした。