一番大切な臓器って何だと思う、と君が言うものだから、僕は思わず微笑んでしまう。
数秒。いや、数十秒。それよりも長かったかもしれないし、短かったかもしれない束の間、僕らは寡黙に見つめ合っていた。その間、世界の時間が止まってしまったみたいに感じた。
「難しい質問だったかな」
口調はいつも通り、彼女らしく穏やかに。そのくせ表情は能面のように無感情に。いつもは笑顔を絶やさない彼女の表情は、その瞬間の僕にとっては新鮮なもののはずで、けれどももう、数え切れないほど目にしてきた。そのチグハグが今の歪な現状。
「急にこんなこと聞かれてもよくわからないよね。うん、それじゃあヒント。私はね、私が生きるのに必要不可欠なモノが臓器だと思うの」
玄関に佇んでいた彼女が、靴も脱がずに廊下を踏み締めて、ゆっくりと接近してくる。思わず僕は、彼女が詰めてきた距離の分だけ後ろに下がる。僕らの距離は縮まらない。きっと、これから先も永遠に。
今日朝起きたとき、それはもう雲一つない快晴で。雨なんて降ってなかったはずなのに、何故か彼女はレインコートなんか羽織っている。
何故か、なんて。本当は全部わかっているのに、馬鹿みたいな思考をしてしまう。
「私なら、私の一番大切な臓器は、あなただって答えるよ」
彼女はじっと僕の目を見つめてくる。逸らすことができないほどに真っ直ぐ。射抜くみたいだ。彼女の瞳の黒には何が溶け込んでいるのだろう。いつになっても、こればかりは分からない。
「あなたが失ったら死んじゃうくらい大切なもの。生命維持に必要不可欠なもの。それが臓器。だとしたら、あなたの一番大切な臓器は、何」
聞きなれた台詞が彼女の口から吐き出されて。答えたくなかったから、僕はぼかすように笑うのだ。
見つめ合っているうちに、彼女の瞳が潤み始めて、色の無い線が頬を伝いだしたとしても。
君が後ろ手に隠している刃物の意味。そんなもの、十回を過ぎた頃からわかっていた。
フローリングに滴った涙は、彼女のレインコート姿と相まって、雨水のよう。
答えてよ。彼女の震えた声が、縋りつくみたいに聞こえる。
その辺りで、僕はようやく肩を竦めながら口を開くのだ。
「僕にとって一番大切な臓器は、」
何百。いや、何千。もっと多いかもしれないし、少ないかもしれない。繰り返した結末はもう、変わることのないものだと気付いていた。
何度繰り返したって、同じ答え。故に、同じ結末を辿る。僕の意見は変わらないし、君の行動も変わらない。
慣れた手付きで自分の胸元を指差して、不敵に笑って放つ一言。
「僕の心臓だ」
できるだけ感情を表に出さないようにして、水溜りを打つ雨のように静かに声にする。
僕がとある物語の登場人物だと気付いた日から。誰かに読まれるたびに、繰り返してきた。
彼女の質問の意味も、意図も、これから起こることも、何もかもを知ったあとでも、僕は変わらない。変えることはできたかもしれないけれど、変えたくないと思ったのだ。それがその瞬間の僕にとって、最適な台詞だから。
「──やっぱり。あなたの一番には、なれないんだ」
諦めたように笑って、彼女はナイフを胸の前で握り締めた。
僕の胸の中には、君じゃない誰かが満たしていて。その誰かでいっぱいな心臓に、君が入る隙なんて何処にも無い。だから君は悔しくて悲しくて。遣る瀬無くて、誰よりも僕を愛してきたにも関わらず、自分の気持ちが届かなかったことが惨めで、苦しくて、それでも愛しくて。そうして、僕を好きで好きで狂ってしまうほどだったから。遂に、行動に出てしまう。
そういう“設定”だけど。それは、君の視点で描かれるから描写されなかった僕の心を、隠していた。
僕の心が手に入らないくらいなら、僕の一番大切な臓器を奪ってしまおうと考えた君。そういう設定に従うことしかできない主人公に、本当の気持ちを告げたなら、君は死んでしまうだろうから。主人公を生かすため、僕は永久に真実を告げられない。
君が両手に握り締めた刃物をこちらに向けて、廊下を蹴った。それを抱き締めるようにして迎え入れた。最初で最後の抱擁。それでいてこれからも繰り返されること。でも、どうせならもっと愛を込めて抱き締めてあげたかった。
もうとっくに僕の心臓は君のものだったけど。それを口にする日は絶対にこない。そういう、物語なのだ。
***
頁をめくらなければ君に殺されることはなかった。でも、
頁をめくらなければ君を好きになれなかった。
物語の登場人物に、その自覚が芽生えてしまったなら、的な話。
まずは作者を呪いますよね。それから読者を呪ってしまいそう。
前回の添へて、の感想書けなかったけど、脳内クレイジーガールさんとNさんのやつ好きでした。
あと、狐さんの、普段は三人称視点で書かれるので、一人称視点は新鮮だなっていうのと内容も流石狐さんって感じで好きでした(笑)