Re: 第10回 鎌鼬に添へて、【小説練習】 ( No.294 )
日時: 2018/11/17 19:26
名前: 浅葱 游◆jRIrZoOLik (ID: SVRTcOMs)



 もしも、私に明日が来ないとすれば、きっとそれはいい事なんだろうと思うよ。そんなことを涼しい顔で言った石宮は、すぐにいつもの調子でニッコリと微笑んだ。右顔が伺えないほど伸びた前髪の下で、石宮が何を思っているのかは分からない。
 より色を濃くした太陽が、街を一色に染め上げていく。後ろから追ってくる狂気や混沌、寂しさを飽和させた泥のような波から、少しだけ街を守っている。石宮も例外なく、冷たい風に暖かな光を受け、守られていた。立ち入り禁止の屋上から見える街は、坂の下に位置する海に向かって、段を成している。

「石宮は死にたいんだ」

 口に出した死にたいなんて言葉は、思っていたよりも乾いていた。石宮は返事に困っているみたいで、印字が掘られた時計を、長く伸びた爪で引っ掻いている。それは石宮がよく見せる、不快の表現でもあった。
 石宮永には語られない過去がある。そんな噂が影で潜む学園に、石宮永は孤独でいた。それなら死にたいと思ったところで不思議じゃない。誰かの消費者として生きるだけなら、死んでしまったほうがきっといい。心も身体も、誰かに捧げて過ごすだなんて。そんなのバカのすることだ。

 石宮は静かだった。守られた街を襲った深い夜の中、石宮永は溶け込むように歩く。たまによろけるようにして壁へ向かうのを、何度か助けながら。いつもは明るく笑うくせに、今日だけは学園でもぶっきらぼうな様子で、一度も笑顔は見せなかった。

「なあ石宮、お前なんで海に行こうとしてんだよ。家、反対方向じゃんか」

 石宮の家は学園よりも上にある。山の中に数軒の集落があり、その中の一つに石宮家が建てられている。それぞれ独立しているであろう部屋からの光が、薄らと外に漏れる程度に、家族関係は希薄化しているらしい。ある日笑いながら、なんてことなく話した石宮の表情が忘れられなかった。
 幅の広い階段を大股で降りる石宮は、腕時計を外して手の中に収めているようだった。手の中にある時計の印字を、親指の爪で何度も引っ掻いている。きっとそれは石宮の癖なんだろう。無意識に不快な何かを感じて、対処しようとしている。癇癪を起こす子どもよりはマシかもしれないが、その内大変なことが起こるんじゃないかなんて考えが浮かんだ。

 曲がりくねった道の先に、黒インクを落としたような海が広がっている。石宮が履くコンバースのスニーカーに、砂が絡まる。足は踏み出す度に砂に沈み、苦しそうだ。まるで全てを抑圧されていた頃の石宮を見ているようで、胸が痛む。しばらくしてようやく足跡が形で残る波打ち際へと着いた。普段運動をする機会が少ないのか、石宮はわずかに肩で息をしている。
 乾燥しきっていそうな喉に粘度の高い唾を飲み込んだのか、眉がひそめられていた。不規則に足元を濡らす黒い波は、夜と同様に狂気と悲しみが混在している。けれど冷たさはなく、不思議と温もりを感じさせた。

「なあ石宮、松田のハゲが言ってだろ。夜の海は危ないから行かないようにって。波に攫われっぞ」

 遊泳禁止区域のこの海では、昔から死亡事故が相次いでいる。そのせいで、昔は遊泳禁止でも栄えていたけれど、今は誰も来なくなった。来てもせいぜい地元のヤンキーか、怖いもの見たさの観光客だけ。だからこそ、なぜ石宮が海に来たのかが分からなかった。普段は寄り道もせずに家に帰るのに、今日に限って、海に来るなんて。どうして。

「石宮、早く帰ろうぜ。海ならまた明日とかさ、明後日でも来れるじゃんか。もっと明るい時間に来よう? な?」

 ふくらはぎまで海に入った石宮は、夜と溶け合った境界線をぼんやりと見つめて、笑う。今までの誰に向けた笑顔よりも、美しく、きれいに。石宮は聞こえないふりをしているようで、俺に返事をしない。なあ、今日はだめだ。今日、お前はここに来たらだめなんだよ。ベルトまでも海水に浸け、やっと石宮は歩くのをやめた。
 覆いかぶさった重たい雲は、石宮のために月を映す。やわらかく海風に、重たい前髪から、隠れていた薄茶の瞳が現れた。薄く細められた瞳。幻想的な様子にも見えた。

「北原に返すわね。この時計」

 手の中に握られていた時計を、名残惜しそうに石宮が眺める。黒革のベルトはくたびれて、所々亀裂が入っていた。裏に施された"ultima forsan"の印字は、角が擦れた部分も見受けられる。白のダイアルをなぞるように、白の秒針は進んでいた。今この時も、石宮の時間を進めていく。
 骨ばった長い指で、石宮がリュウズを引いた。長さを増したリュウズの代わりに、秒針は動きを止める。石宮のその動きを見る僕の心臓は、少しずつ大人しくなっていた。それは諦めにも似た気持ちが、僕の中でだんだんと大きくなっていたからだと思う。

 石宮永には、語られない過去がある。二年前、クラスメイトの北原圭一が亡くなった。石宮の理解者だったらしく、家族関係から小さな悩み事まで話し合う仲だったらしい。性同一性障害なのよと打ち明けられた翌日から数日間、石宮は登校しなかった。なんとなく理由は分かっていた。
 噂もすぐに広まった。石宮が殴られているのを見た、部屋に男連れ込んでるのがバレて勘当されかけてる、家を追い出されるらしい。根も葉もない噂が、僕の耳にも届いていた。聞いたところで石宮に対する評価は変わらないけれど、そうした噂は僕のところが終着のように、ほぼ毎日届いた。

 数日経って投稿してきた石宮の頬には青黒いあざが、唇には切れ長の傷がかさぶたになっていた。心配されるのを鬱陶しそうになんてせず、興味本位で寄ってきたやつにも、石宮は笑う。久しぶりに見ても変わらない石宮と一緒に帰った。石宮の家に寄って帰らなければ、僕はきっと今も石宮の隣で笑っている。
 止まった時間の中で思い出すのは酷い痛みと、痛みから解放される喜びばかりだ。あの日石宮を呪ってやろうと思った。忘れないように、お前が殺した僕を、どんな時でも思い出すように。深夜に連れ出されたこの海は、僕の大きな墓場で、石宮にとっては罪の塊だ。

 ぱちゃん。

 時計の盤面がぶつかったのかもしれない。意識は、もう意識なんてものもないけれど、走馬灯のような記憶が終わる。石宮はただ強く地平線の果てを見つめていた。

「北原のこと、忘れてないわよ。ちゃんとまた、隣に行くから」

 いつ付けたのか、石宮の腕の真新しく黒いアナログ時計が月明かりに照らされる。海の底に落ちた僕の時計は動かない。波音に紛れる秒針の音は、石宮の時計から鳴る。満足気に岸に向かう背中を、ただ見つめることしか出来ないままだった。声をかけることも、歩く度に揺れる腕を掴むこともできない。
 僕を置いていかないで、忘れないでほしいのに、行動することは出来なかった。望む明日がこないのなら、隣で笑う石宮に会えたんだろうか。岸に着いた石宮が闇に溶けるのを見て、そう感じた。


 ■メメント・モリ