もしも、私に明日が来ないとすればーー
突然放たれた言葉。あの日の彼女が言った言葉。
彼女は振り返って言った。高い位置で結んだ髪がふわり、と揺れる。
「え、何急に」
俺は驚いて聞き返す。
「……」
それなのに彼女は先を続けようとしない。
「……」
俺には急かすつもりも追及するつもりもないから、妙な沈黙が続く。
「部屋、片付けといてよ」
「……は?」
「聞こえなかったの? 部屋、」
「待って、聞こえたけど、どうした?」
わけのわからないことを言われて動揺する俺とは裏腹に、彼女は涼しげな顔で空を見上げている。
快晴。ほとんど雲がない、青い空が彼女の瞳にはたぶん映っている。
「そうだなぁ……、なんとなく、かな」
「なんなんだよ……」
ますます意味がわからない。俺は時々こうして彼女の気まぐれに付き合わされる。
「それっ!」
突然水が降ってくる。彼女がホースの口をこちらに向けていた。そこからは勢いよく水が噴き出している。
「谷川!」
「あはは!」
俺たちは春休みの水やり当番という、謎の係を押し付けられ、学校が休みにもかかわらずこうして花に水をあげているのだった。
「暑いでしょ?」
「そんなわけあるか! 三月の最終日!! 春!!」
たとえいくら暑くても、水をかぶるほどではない。
「見て見てー! 虹ー!!」
あはっ、と楽しそうに笑う谷川を見てると、こちらの口もとも思わずゆるむ。水をかけられたのは不本意ではあるが。
いつもと変わらない、日常。
「ねぇ、田中ー」
「何?」
「海行こうよー、海」
「海?」
谷川は、のんびりした調子でおかしなことを言う。こんな春先に海だなんて。
「寒いと思うけど」
「いいの、いいの! 最後に田中と行きたいじゃん」
「最後って、まださっきの冗談続けるつもり?」
「砂浜で寝転ぶだけでいいから!」
「人の話聞けよー」
俺はわざとらしく片手を額に当てて言う。
「ははは、ごめんね。冗談じゃないよ」
「冗談じゃないって……まさか、早まるなよ!?」
「別に死んだりしないから、安心して」
「本当に?」
こういうことを言う時の谷川は信用できない。安心も、もちろんできない。できないけど……。
「もー、心配性だなぁ。今日一日見張っとく?」
「いや、それはちょっと……」
「でしょ? じゃあ、今日の夜11時、そこの砂浜に集合」
彼女は数十メートル先を指差す。そこには果てのない青い海が広がっていた。
「夜? 今昼前だけど?」
「いいでしょ、たまには私のわがままにも付き合いなさい」
「いやいや、いつも振り回されてますけど」
「じゃあ習慣ってことでいいじゃん。規則正しい! 最高!」
「……」
はぁ。俺はため息をつく。彼女とのこんな日常はいつまでも続きそうだ。
「やあ。よく来たね」
砂浜に着くと、先にいた谷川が右手を少しあげるだけの挨拶をした。
「よく言うよ。谷川が来いって言ったくせに」
「そうだったね」
そう言って彼女は海の遠くを見た。地平線を眺めているらしかった。
「……で? こんな夜に呼び出してどうしたの? 親御さんは心配しない?」
「親は大丈夫。だから言ってるでしょ、田中と海来たかっただけだよ」
谷川は俺の目を見ない。嘘をつくときはいつもそうだ。たぶん何か隠してる。
「こんな夜じゃなくてもよくない? 寒いよ」
「田中は寒がりだもんね。男のくせに」
「るせっ」
「あー、田中が寒すぎて震えてて私がマフラー貸したことあったなぁ」
「……忘れてくれ……」
思いだしたくない恥を掘り返される。やめてくれ……。
思い出話をするうちに、いつのまにか俺たちは砂浜に寝そべって空を見上げていた。うっすらと雲が浮かぶ空に、星がぽつぽつと見える。
「田中ー、私、一人暮らしなんだ」
「え? 初耳!?」
突然の告白に驚く。隠していたことはこれか? いや、たぶん違う。たぶん。
「だって言ったことないもーん。あのさ、鍵、預けとくから"部屋、片付けといて"」
彼女はあの時の言葉を強調して言う。
「……ねぇ、谷川。何か隠してない?」
俺は鍵を受け取って、ゆっくりと彼女の目を見て言った。
「…………やっぱ、わかっちゃうかー。田中には」
彼女は少しだけ考えて、こう言った。
「記念写真撮ってよ」
「は? 写真?」
「うん、写真。それでさ、私のこと忘れないでいてよ」
「……どういうこと?」
「お願い。12時になるまでに」
俺は、谷川の切実なお願いをさすがに無下にすることは出来ず、しぶしぶ写真を一枚撮る。時計の針は12時1分前だった。
「田中笑ってない! もう一枚! 早く!!」
言われるがままに急いでもう一枚撮る。撮れた写真を確認すると、笑えと言った張本人は泣いていた。
「谷川、なんで泣いーー」
ばいばい、田中。
そう、隣で彼女がつぶやいた。
「え……?」
隣に、彼女の姿はもう、なかったんだ。
俺は走っていた。鍵を握りしめて。砂に足を取られてうまく走れない。俺はたぶん泣いていた。あんまり覚えてないんだ。
谷川の家は片付いていた。むしろ、片付けるものなどほとんど存在しない。俺はおもむろに学習机に近づいて、椅子に座った。
「谷川……」
どこいったんだ。
俺は、ふと気づいた。この部屋に、何か手がかりがあるのかもしれない。俺は早速、片っ端から引き出しを開ける。そこには何も入ってなかった。たった一つを除いて。
20◯◯年 高校2年生(3回目)
それは、こんなタイトルの日記だった。
俺はノートの表紙をめくる。
友人Tに贈る。
4月10日
今年は女の子の友達を作ることは諦めた。2回やって気づいたけど、私には向いていないようだ。そこで、今年は前の席のTというやつに話しかけてみた。結構おもしろいやつ。仲良くなれそう。
これ、俺のことじゃん。Tって……。さらに何枚かページをめくる。日記は毎日書いていたようだ。
7月23日
友人Tがばかすぎて補習にかかった。一緒に遊べる日数が減るじゃんか。え? 私? さすがに高2を3回やれば学年トップだよね〜。
3月31日
今日は友人Tともお別れだ。今までで一番楽しかった。寂しいけど、どうしようもないから。私は、永遠に17歳から抜け出せない。だから、次も君と友達になろう。
今まで一年間、本当に、本当に、ありがとう。
涙で滲んで乾いたインクが、再び、ゆがんだ。