Re: 第10回 鎌鼬に添へて、【小説練習】 ( No.302 )
日時: 2018/12/01 19:59
名前: 雷燕◆bizc.dLEtA (ID: AQd0kFzY)

   明日という日は


 もしも、私に明日が来ないとしたら、それはそなたらのどこまでも自己中心的なもののとらえ方をよく表した、反吐が出るほどに愛おしい言葉さな。

 そう言ってゆらゆらと四本の尾を揺らす銀狐の話し相手は、赤いランドセルを背負った泣きぼくろの少女一人だけである。太陽はまだ斜めに山を照らしているが、森の中にいれば木の陰になって既に薄暗かった。嵐が来たらすぐに倒れてしまいそうな頼りないバス停シェルター内で、少女は椅子に座りぶらぶらと足を揺らしていた。

「あたしがジコチューとか、ひどーい! 寝て、起きたら次の日が始まるんやけん、ずっと起きちょるおキツネさまにはずっと今日なんはそらそうやろ?」
「私にとっては日の出こそが次の日の始まる合図だが、そなたにとっては意識の途切れが日の区切りなのだな。全ての基準は自分。子供とは、人間とはそういうものよ――」

 坂の上から女が歩いてきた。顔には既に多くのしわが刻まれているが、その足並みはまだ老婆というほどには衰えを感じさせない。あら今日は早いバスやったんね、待たせてごめんね。そう言いながら近づいてきた女は、バス停横に積まれた石の前で手を合わせた。

「今日もこん子を見守ってくださりありがとうございました」

 狐はそれを聞きながら満足そうに尻尾を揺らした。

「おキツネさま、今はこっちおるよ」
「あらそうなん。お話してもらちょったんやね、よかったね」

 二人は手を繋いで坂を上り始めた。
 暇になった狐は散歩に出かけた。昔は村の畑まで行きお供えに答えて実りを配っていたものだが、人間は既に狐を必要としない農業技術を持っている。先ほどの女がたまに花を替える程度になった現在では、狐はこのささやかな石積みからあまり離れることもできない。
 次のバスまでたっぷり一時間はある。その頃にまた狐は戻ってきて、降りる人を見守るだろう。


 やがて泣きぼくろの少女はランドセルを手放し、セーラー服を着てバスを待つようになった。

「なあなあ、おキツネさまパワーで縁結びとかできるんやない?」

 祖母からスピリチュアルな話ばかり聞かされて育ったから、四尾の狐なぞ見えるようになってしまったのだ、クラスの皆に話したら絶対笑われる、と嘆くわりに都合のいいことよ。狐は半分呆れながらも困り顔で少女を見つめた。

「私はもともと豊穣を願って祀られたのだから、縁結びは専門外だ。そもそも今ではろくに私を祀る人間もいないのだから、そのような力はない」
「じゃああたしがめっちゃ祀るし、めっちゃお供えもするわ!」

 その日から少女は頻繁に花を摘んで持ってきたし、たまに食べ物なども積み石の前に置いた。無駄だからやめなさいと狐は何度も言ったが、初めて食べるメロンパンというものは実に美味く、温かい味がした。


 少女がセーラー服を着始めて何度目かの年の瀬が訪れた。これまた人間が勝手に定めた区切りであるなあと話す狐も、実のところこの時期を好んでいた。普段村に住んでいない人間もバス停を訪れ、日ごろ石積みを素通りする人々も、この時ばかりは供え物を手向けるからである。一年ごとに老けていく大人を、みるみる成長していく子供を、狐は静かに見守った。

 少女はバス停シェルターではいつも小さな本を読むようになっていた。勉学のためだろうというのは察しがついていたので、狐も気を遣って自分からは話しかけない。泣きぼくろの高校生には受験がすぐそこまで迫っている。

「あたし、都会に出たいんよ。そのために大学に受からんといけんのや」
「じゃあ私みたいなものとは話しなさんな。唯物主義の都会人に笑われるぞ」
「あたし以外の誰がこんな朝早くこんなバス停に来るっちゅーんや。心配いりませんー」

 狐のアドバイスを笑顔で反故にする少女を見て、狐は頼もしさと少しの寂しさを感じた。都会に行った人間は誰もが狐と話せなくなってしまうから、都会は嫌いだ。都会は嫌いだが、少女はもう自分の力で生きていこうとしているのだ。私の役割はもうすぐ終わりなのだろう。
 狐は少女の成功を祈った。祈りの対象であった自分が、ただ空な未来へ向かって祈らねばならない無力さを感じながら、ただ祈った。


 狐はずっとバス停にいた。一時間に一本のバスは、素通りしていくことが以前より多くなった。既に村から通学する子供はいなくなり、働く者は自分で車に乗るので、狐はたまに買い物に出る老人たちを見るくらいである。

 しかし、その日は多くの人間が村へ出入りしているようだった。坂を上る車を見送る。バスからも複数人降りてくる。皆、黒い服を着ていた。
 森の中が薄暗くなり空が橙に染まった頃、小さな子供の手を引いて、礼服を着た妙齢の女性が坂を下りてきた。狐が道路の反対側を歩くその女性の泣きぼくろに気づいて、尻尾をぴくりと動かした時、バス停の裏から兎が現れた。

「うさちゃんだ!」

 子供がそう言って、母親の手を振り払ってバス停のある側へ走りだす。その時点では、坂の上から降りてくるバスに気づいていたのは、狐だけだった。
 夕方の山にブレーキ音が響く。

 幸いにも、子供とバスは接触しなかった。道路脇に逸れて脱輪したバスは、バス停手前の小さな石積みを倒しただけだった。子供の無事を確認した女性がバスの運転手に何度も頭を下げたあと、二人はバスに乗って山を下りて行った。

 狐はもはやただの石くずとなったそれの隣で、ほっとした顔をして丸まった。花を置いてくれる人もいなくなった今、ちっぽけな石積みであっても、それだけが狐の意識をこの場所に繋ぎとめる縁であった。倒されたままでは、何の意味も持たない。狐には、誰かがまた形を戻してくれるのを待つほかなかった。
 沈みゆく意識の中で、狐は昔交わした会話を思い出す。

 もしも、私に明日が来るとしたら――それは、誰かが私のことを思い出してくれた、さぞかし幸せな日であろうよ。


----------

ほとんどの方は初めまして。雷燕と申します。
今回は珍しく間に合ったので添えさせていただきました。
素敵なお題ありがとうございました。他の方々の作品も楽しませていただきます。