Re: 第11回 狂い咲きに添へて、【小説練習】 ( No.314 )
日時: 2018/12/27 19:39
名前: 月白鳥◆/Y5KFzQjcs (ID: TDiaqNV.)

 凍てつく夜に降る雪は、昨日の世界を白く染めていた。名残雪である。この雪は溶けた水とそれが再び凍った氷を交えてとても硬い。その硬さでかつては城塞すら築いたものであるが、そんな涅槃雪は今や、天からの増員が途絶えた途端全て溶けて水となり、アスファルトを黒く湿らせている。技術の進歩、或いは人類の繁栄と共に地面を侵食していったこの黒き殻、これが溜め込む熱とはかくも強力であり、彼女らは現状に於いて綿羽より尚儚い。
 瞬く間に息絶えてゆく同朋を見下ろして、庇の下に溶け残った彼女は溜息を一つ。灰色のコンクリートは熱をよく逃して常に冷たく、熱に弱い彼女らの格好の逃げ場である。

「最近の太陽は怒りんぼね」

 童女の声が暗やみの静けさにそっと転がった。今此処に齢七つの童か、見鬼の才を持つ者がいれば、溶け残って氷になりかかった雪の上で、膝を抱えて頰を膨らませている小人の姿でも捉えただろうか。
 陽を返して煌めく粉雪にも似た白い髪、溶け残りの氷めいた銀の瞳。宝石を散りばめた装束もまた白く、しかして肌は椿を透かしたように仄かな赤みを帯びている。彼女は雪の精であった。生きていれば同じような、けれどもそれぞれ見目の異なる童女が無数に飛び回っていただろう。けれども今はもう彼女一人しか残ってはいない。
 その静けさを見回して、童女はぷくりと頰を膨らませる。

「あぅうーもう居なくなっちゃったよぅ……太陽ってば、人間とちょっと喧嘩したからって星に八つ当たりなんて。ダサいぞー!」

 小さな妖精の言葉は、誰にも捉えられずにただ転がって消えていった。
 人間は傲慢である。地に満ちるだけに飽き足らず、今度は天にすら満ちようとしている。その為には如何なる犠牲も厭わぬし、それの為に滅びた生物は数知れぬと、いつだったか姉妹が伝え聞いてきてくれた。
 だが、彼女はそんな獰猛さが嫌いだとは思えなかった。雪の精はどれほど太陽に焦がれようがその身許には行けないし、今下々を照らす月にすら手が届かない。広い海に憧れても触れれば溶けてしまうし、仲良くなった人間を抱き締めることも叶わない。それどころか、どれほど春や夏の輝かしさを身に纏いたくとも、彼女達は永遠に燦々たる陽気を歩くことなど出来ないのだ。
 無い無い尽くしの雪の精にとって、伸びやかに夢を果たしていく様を見るのは面白かった。冷たいはずの雪で家を作り、その中に火を持ち込んで宴席を始めた時には、老翁の知恵と知識に本気で感動した。粉雪のような無限の星に憧れて、そのまま空に飛んでいってしまった青年を見た。毎年貝や魚をくれたあの妙齢の女は、あの広い海に単身挑んでいたと言う。
 そんな人間達は。彼女達と一等深く交友してきたあの者達は、今きっと。
 あの満天の星空の最中を、泳いでいる最中だろう。

「嗚呼、あぁ。もう夜が明けちゃう。人間たち、ちゃんと着いたかな?」

 怒れる太陽によって居住可能な環境が減らされ、膨れ上がった人口を支えきれなくなったこの惑星から、まだ見ぬ豊かさを求めて人間が旅立ってから、かれこれ五十年ほど経っただろうか。太陽はこの地に忌むべき人間など一人もいないとも知らず、天罰を下さんと懸命に燃え盛っている。その権勢たるや凄まじく、南の方はとうの昔に何もかも燃え尽きて砂の山、他もどんどん夏の熱気に侵食され、季節の変動が残っているのは北の最果ての地ただ一つ。此処が常春の地となり、常夏の暑さを得て、ミジンコの一匹も残らぬ枯れ野原に変わるのも時間の問題であろう。
 こうなる前、人間は気を利かせて、交友の深かった数人の姉妹を一緒に連れて行ってくれた。己も付いて行きたくはあったが、残された姉妹があまりにもさめざめと泣くので、慰める為に残ったのだ。
 けれど、その相手もいない。

「ぁあ、朝が来ちゃった……」

 泣き声はやはり、誰にも届かない。はらはらと銀の瞳を揺らして溢れる氷の涙も、地平線から昇る激烈な輝きが触れるたびに、容赦なく溶けて雪の精の肌を灼く。
 死神の来臨である。その帯びた熱気の凄まじさは、今年の冬がこれで最後らしいことを、否が応にも全身に知らしめた。
 もう嘆く暇もない。童女の身体が足先から色彩を失い、コンクリートを湿す水へと変わっていく。姉妹達の亡骸に、己もまた混じっていく。
 そうして遂に脚が溶け、腕がもげ落ちて、頭の重さに耐えきれず胴がくずおれ――いよいよ首だけになった妖精は、それでも虚仮の一念を通して呟いた。

「また逢いたかったなぁ……」

 嘲笑うように照りつける熱線が、淡雪の如き言葉も溶かして空を走る。

『涅槃の雪』