――鏡よ、鏡。この世で一番美しいものは何?
「それは姫。当然ながら、あなた様がお持ちのものでございます」
──まあ、嬉しい。
「あなた様の美しい琥珀の髪」
──そうね。
「そしてあなた様の御心のごとく深い海にも似た蒼の瞳」
──あら、そう。
「そしてあなた様の御手、おみ足はまるで正しき絹のようで……」
──まって、鏡。それではどれが一番だかわからないわ。
「いえ。もうおわかりでしょう、姫」
かつて荒野の歌姫と呼ばれ、人々に愛された女は、なにも答えることができなかった。
戦火が掻き消えてから一年という月日が経過している。にも拘わらず、まだ瓦礫や潰れた草木、鉛色の空が街にのしかかっていた。そんなある街のなかで連なる廃屋の一室にエルシアはいた。数週間まえからずっと、この壊れた大鏡のまえからほとんど動いていないのだった。
人がいる場所で、歌が歌えた頃はよかった。
みな歌なんて知らないものだから、自分がひとたび風に音を乗せれば、人々は大層喜んだ。勝手にご飯を賄ってくれたし、寝床もくれた。身寄りのない自分を手厚く歓迎してくれた。男の子に求婚されたりもしたものだ。
歌さえあれば。
病にさえかからなければ。
いまもこの喉で、今日を楽しく生きることができていたのに。
――鏡よ、鏡。この世で一番美しいものは何?
エルシアは藁半紙を束ねたものに、ふたたびそう書き綴って、鏡のまえに翳した。はじめは戸惑いこそしたが、いまとなってはこのしゃべる大鏡以外に彼女の話し相手はいないのだ。
「それはあなた様の声です」
──なによ。ひどいわ、みんなして。歌、歌って。
──みんなわたしの歌声しか好きじゃなかったんだわ。
「そうかもしれません。けれども、それはあなた様もおなじだったのでは?」
──そうね。
彼女はすこし考えてから、枝のように細い指で筆を動かした。
──わたしもみんなに甘えてた。歌さえ歌えばみんな喜んでいろいろしてくれるって思いこんだわ。
──でもしかたがないじゃない。わたしだって生きるのに必死だった。必死だったのよ!
「はい」
──でももういいの。声がないなら生きていけない。わたしは声がなくちゃだめなの。生きていくにはこれしかなかったのに。
「そんなことはありませんよ、姫」
返答の意味がわからなかったエルシアは、筆の動きをはたと止めた。
「あなた様にはその美しい髪があります。美しい瞳があります。美しい手足があります。声がなくても、あなたには、ほかにもたくさんいいところがあるのです」
エルシアは鏡を見つめた。琥珀の髪は泥と油にまみれ、深い蒼の瞳の下には隈が滲み、白い手足は火傷と痣だらけのはずなのに、
鏡は続けた。
「その声が大好きでした。みんな大好きでした」
「だけど僕は、あなたのことはもっともっと好きです」
「だから泣かないで」
膝元に置いた藁半紙に、ぽたり、ぽたりと、涙が落ちていた。
「……………………ぁ、ぅ」
弱々しく筆を握ったエルシアは、水びたしでよれた紙に筆先を立てた。
──うたいたいわ
──わたし、もっとうたいたい
──こえをだしたい
声にならない汚い音が、細い喉の奥からこぼれ落ちる。
鏡のうしろから、みずぼらしい姿の少年が顔を出して言った。
「うん。きっとまた聴かせてね、エルシア。どんなお話だって、歌だって、ききたい」
*Fin.