Re: 第13回 瓶覗きを添へて、【小説練習】 ( No.329 )
日時: 2019/07/22 13:37
名前: メデューサ◆VT.GcMv.N6 (ID: vwAUAsug)

 赤い彼女は、狭い水槽の中に閉じ込められている。俺はそんな彼女に大海原を見せてやりたくなった。
 なんて格好つけてみても、まあ単に茹だった頭による思いつきなんだが。

 それにしても……。

「あっづ……」
 ついさっき開けられたばかりの、真っ昼間の風呂場は蒸し暑い。




 話は数時間前にさかのぼる。遥々神奈川から大阪の実家へと帰ってきたばかりの俺に姉ちゃんはこう言った。

「あれ、あんた帰ってくるん今日やったっけ? まあええわ、あたし図書館で涼んでくるから留守番しとって。今日宅配便来んねん」

 現時刻、午前11時。今日の最高気温、38度。

「とりあえず、家上がらして」
 駅から家まで炎天下の中10分も歩いた俺にはそう絞り出すのがやっとだった。


 ともかく、勝手知ったる我が家に帰ってきた。荷物を自室に置いて、さあエアコンをつけてテレビでも、と机の上のリモコンの群れに目をやるとその中の1つに何やら張り紙がしてある。そこには『故障中』の文字。
 問題は、それが何のリモコンかということだ。まさか、そう思って張り紙をめくれば「冷房・除湿」と書かれたボタンが何の慈悲もなく姿を現した。

 我が家のクーラーは俺が生まれた頃にまとめて買ったものだ。嫌な予感がして自室、両親の部屋、姉ちゃんの部屋全てのリモコンを見にいくも、なんの手心もなく全く同じ張り紙が貼られているだけだった。
 諦めて冷凍庫を漁るもアイスの1つもない。恐らく最後の一つだったであろうスーパーカップの容器が流しに漬けられている。仕方なくポカリスエットの粉を氷水に溶かしながら姉ちゃんにLINEを送った。どうりで出て行くところだったにしては家の中が冷えてないと思ったんだ。

『姉ちゃんクーラーいつ直るん?』
『今週の金曜』
 言うまでもなく今日は火曜日だ。
『俺神奈川帰ってるやんけ』
『どこも混んでんねんて。壊れたん昨日やし』
 いや言えや。そう打とうとしたところにさらにメッセージが来る。
『押入れに扇風機あるからそれ使うたら? あたし今から寝るから起こさんといてや』
 それを最後にこの後いくらメッセージを送っても既読は付かなくなった。

 テレビをつけても暑さを紛らわせるようなめぼしい番組はやっていない。こうも暑いとわざわざ火を使って昼飯を作る気にもなれない。もうふて寝しようかとも考えたが下手に寝れば熱中症で搬送される羽目になりそうだ。セミの鳴き声ってのはどうしてこうも易々と家の防音設計を突破するんだろうか? 
 しばらくうだうだと携帯を弄っていたが端末が熱を持ってきたので机の上に放り出した。

 暑い。

 ああ、暑い。

 姉ちゃんの言う通りにするのは癪だが、俺は階段下の押入れに扇風機を探しに行くことにした。


 我が家の押入れ。買ってきては要らなくなったものを次々と放り込んでるため、大量の物で溢れかえっている。……いや本当になんで溢れてこないのか不思議だ。収納術とは何かの神秘なのか。
 そんななんの風も吹かない、閉め切られてじめじめとした空間に夏の気温が合わさって殺人的な進化を遂げた魔窟を漁っていると色々なものを見つけた。昔使っていたカキ氷機とか、無くしたと思っていた子ども雑誌の付録とか、高校の頃の水着とかをだ。
 そしてようやく、壁が見えるところまできてようやく! お目当ての扇風機を見つけた。羽根にもダイヤルにも埃が積もっていて本当に動くのかいささか心配だが、見つかったものは見つかったのでとっとと引き上げる。もう1秒だってこんなじっとりとした場所には居たくなかった。
 後片付けのことは涼んでから考えよう、自慢じゃないが収納には自信がないんだ。

 汚れないように玄関先で扇風機にハタキ(これも押入れの中で見つけた)をかけていると埃で見えなかった文字が見えてきた。
「早川電機……どこやろ。まだあるんかな」
 ともかくこっちは涼めればいいんだ。そこは早川電機さんの技術力に期待しよう。

 あらかた埃を落とし終えて恐る恐るコンセントに繋ぎ、ダイヤルを一気に強に回す。
 結論から言えば扇風機は回った。回りはした。だが悲しいかな明らかに平成製ではなく昭和製であろう早川電機の扇風機には暑さを吹き飛ばせるだけの風力は残っていなかった。パキパキと首を振って部屋のぬるい空気をかき回す姿は虚しい、いやいっそ健気だ。宇宙人ごっこをするための風力すらないなんてもはや扇風機として死んでいるも同然ではないか。
 そんなふうに絶望に打ちひしがれていると家のチャイムが鳴った。
「辻さーん、郵便でーす!」
「……今行きまーす」
 氷の溶けたポカリを一息に飲んで俺は玄関へと向かった。


 荷物は姉ちゃんの化粧品だった。化粧水でも首や脇に付ければ少しは涼しくなるだろうか、いや、やめておこう。バレたら何をされるか分かったものじゃない。伝票にハンコを貰うと配達員さんは片手サイズの、しかし早川電機のよりパワフルな扇風機を顔に当てながらトラックで走り去っていった。汗だくな上に埃で泥々になっている俺を見て配達員さんはちょっと引いていた。

 こうして宅配便を受け取ったんだからこれで晴れて自由の身かというとそうでもない。時刻は午後1時、外は恐らく最高気温だ。今の状態でそんな日差しの中を歩けば間違いなく搬送される。なにより俺がこんなベッタベタの状態で出歩きたくない。
 海に行きたい。彼女と海に行きたい。一緒に海に行ってくれる彼女が欲しい。プールでもいい。なんかもうサッパリしたい。
 そこまで考えて閃いた。
「……そうや水風呂。水風呂したらええやん!」
 よく閃いたものだ。これは間違いなく近年稀に見る天啓だ。そうと決まれば早速湯船に水を溜めようと、意気揚々と風呂場の扉を開けた。




 そして、冒頭に至る。文字通りの蒸風呂状態ではあるが、注がれる水のひんやりとした空気が着々と蒸し暑さを喰らっていく。もうちょっとして肩が浸かるくらいまでになったら一旦止めよう。その間に少しでもレジャー感を味わおうと押入れに水着を取りに行った。高校の時のやつだけど、たぶんまだ入るだろう。知らんけど。
 水着を手に取ってさあ風呂場へ戻ろうとした時、ふと"彼女"のことを思い出した。俺の部屋の棚に飾ってある彼女。あれは中学の頃だったか、夢中で作ったっけ。人間ではないけれど、まあ女性名詞だし彼女カウントでいいだろう。
 水槽の中の彼女に大海原を見せるため、俺は彼女を取りに行った。

 彼女は変わらず、自室の棚の2段目に鎮座していた。そーっと埃を払って慎重に持ち出す。手汗で滑って落としでもしたら、と思うとそれだけで背筋が凍る。だがそんな涼しさは求めていないのでさっさと風呂場へ戻ることにした。

 勝手知ったる我が家の風呂場に脱衣所などという高尚なスペースはない。扉の前にマットを敷いて、膝下くらいまであるでかいのれんを閉めてそこで脱ぐ。水着に着替えて風呂場に戻ると水位は湯船から溢れるぎりぎりになっていた。慌てて水を止めるとゆっくり、慎重に彼女を洗面器に入れる。一応コルクにラップを被せて輪ゴムで縛るなど処置はしたが、浸水が怖いので直接水につけることはできない。それでも、これで少しでも喜んでくれたらいいな、と柄にもなくロマンチックなことを考えて自分も水に浸かる。
「気持ちええか、カーマイン号」
 "彼女"とは、ボトルシップのことだ。


 中学の時、親友と喧嘩したことがある。あいつの好きな子にその事を言ってしまったのだ。当時の俺からすると二人は明らかに両片思いってやつで、焦れったくてつい口が滑ったみたいなものだった。
 結果的にあいつとその女の子は付き合うことになったけど、なんとなく気まずい雰囲気ができて学校が楽しくなくなった。
 そんな時だった。親父にボトルシップの作り方を教えてもらったのは。
 最初は中々部品が組めなくてもどかしく思ったけれど、それでもピンセットで船が組み上げられていく様が見ていて面白くて。パーツを塗装して自分だけの船を作るまでにのめり込んだ。焦ったり急かしたりせず慎重に、落ち着いて物事を進める楽しさを覚えた。そして俺はあいつにちゃんと謝った。向こうも許してくれて今でもたまに連絡を取ってはつるむ仲だ。
 その後は受験で一旦やめてしばらく触っていなかったけれど、また触ってみるのもいいかなと、瓶詰めの中の真っ赤な彼女を見て思う。

「なー聞いてくれやカーマイン号。俺今神奈川の、こっからずっと東の方の大学行ってんねんな。ほんで今日帰ってきてんけどなクーラー壊れてんねん。そんで姉ちゃんに留守番押し付けられてさー。ほんま、神奈川から大阪帰るんも楽ちゃうねんぞ」
 当然、返事など来ない。カーマイン号は洗面器と一緒にちゃぷちゃぷ揺れるだけだ。しかし、俺にはそれが気楽だった。
「こらあれやな、お駄賃もらわな。道出たとこのスーパーのたこ焼き買うて来てもらわなな。『八足屋』言うねんけどな、駐車場のとこにプレハブ建ててやってんねんけどめっちゃ美味しいねん。ソースがちゃうねんて。自分とこで作ってんねんて。今日めっちゃ暑いけどやってるんかな」
 そんなふうに一方的に喋っていると玄関の方から声がした。姉ちゃんの声だ。
「ただいまー。あーよう寝た」
「おかえりー」
 一応扉を少し開けて返事をする。
「荷物受け取ってくれてありがとうな。お土産買うてきたからお風呂上がったら食べて……うわ、なんでこんな散らかってるん! あんた後で片付けときや!」
 そう言って姉ちゃんは2階へと上がっていった。キッチンの方から漂ってきた馴染みのあるソースの匂いが確かに鼻をくすぐった。