命を代償に、魔女の力は口付けた相手に受け継がれる。そうして彼は土の魔女の力を得た。これまでは溢れる魔力を供給する、いわばタンクのような役目に過ぎなかった彼だが、それにより独りでも戦える力を得た。これまではただ、魔力の足りない彼女を補うだけの彼が自力で魔法を使えるようになったのは彼自身二人でいた頃より強くなったと感じていたが、それでもやはり、寂しさに胸を打たれて仕方なかった。
どうせ死ぬなら、君にあげようじゃないか。死の淵まで、彼女の声は凛々しくて、一片の揺らぎもないものだった。好いた女性からの口付けだというのに、何も嬉しくなかった。敵討ちを心待ちにしていると、氷の魔女は冷たい微笑を浮かべていた。
今日がその時だ。あの日も、彼らが自分の魔力に敵わないと理解すると、退屈そうに欠伸をした。好機があるとしたらきっとそこだけだ。隙は突いた、全力は尽くした、もう後は作戦が上手くいくことを信じるしかない。
急いでゴーレムの下敷きにならないところへ飛ぼうとする氷の魔女に、すがりつくように彼は飛びかかる。既に勢いよく飛び出している彼の方が、急に動き出した氷の魔女よりもずっと早く、その左腕に手が届く。後は掴むだけ、ぐっと指先に力を込めるように指示し、後一寸もあれば最強の名を欲しいままにしてきた魔女に手が届く、その時だった。
「及第点、といったところね」
彼の動きは、まるで停止を押された映像のように、急にピタリと止まった。掴まれそうだと判断した魔女は、回避ではなく迎撃を選んだ。相手がほぼ全ての魔力を使ったと言うなら、自分が温存する必要もなくなる。最後のゴーレムは確かに巨大で山のようだが、それでも全魔力を使えば術者ごと氷漬けにできる。そう、判断してのことだ。
そしてできあがった氷の中の剥製は二つ、今にも倒れそうな巨大な土人形、そしてここまで彼なりに健闘した一人の人間。最後の最後、少しだけ楽しめたわねと、魔女は楽しげな微笑を浮かべて見せた。
とどめを刺そうかと、僅かに残った魔力で鋭利な氷の槍を彼女は生成した。もうすっかり魔力は使い果たしており、普段なら一瞬で千と作れる氷の槍も、二、三作るのが限界だった。
これで終わり、天高く指した指を下に振り下ろすような動きで念じると、三方向から氷漬けのままの彼の体を串刺しにした。心臓を、頭蓋を、腸を、それぞれの刃は貫いた。土の魔女と同じ死に様なら彼も本望だろうてと、彼女なりに彼を弔った。
いつものように、勝利の一時に浸ろうかと、一度ゴーレムの下敷きにならない位置に彼女は移動し、指を軽く鳴らしてみせた。彼、そしてゴーレムを覆っていた氷は一瞬で砕け散り、きらびやかに宙を舞う。キラリキラリと氷の破片が舞い遊ぶ中、彼が先程作り出したゴーレムは誰の姿を捉えることもなく、虚しく地に伏した。そのゴーレムに寄り添い、先程まで相対していた、元は魔法の使えなかった男のことを思い出していた。
これだけの魔力量は、普通の人間にしてはありえないものだ。全く才能というものは恐ろしいと氷の魔女は惚れ惚れとした。人間を辞めていなければ、確実に自分は負けていただろう。
ふと、自分の足が何かを蹴飛ばした。それはごろりごろりと転がった。何だろうかと見てみると、一つだけ残った食べかけの団子のようで、先程氷の槍に貫かれた頭部だった。どれ、その顔を拝んでやろうと、ひょいとそれを持ち上げる。やはり頭というのは重たいものだ、そう思いながらもふと一抹の疑問が生まれる。
はて、それにしてもこんなに重かったものだろうか、と。
次の瞬間だった、すぐ側のゴーレムの巨大な頭部にヒビが入ったのは。手元に持ち上げた物体の方に意識を戻す。それはよく見ると、人間の頭では無かった。表面の色さえも再現し、表情さえも自在に変える、精巧な土人形。彼の本体だと、氷の魔女が錯覚していたのはずっとその人形だった。
なら、本体は。気づいた時には、もう遅かった。おそらくは、大量のゴーレムに身を隠したあの瞬間が、この作戦の始まりだったのだろう。ゴーレムの巨大さは、自分の身を凍死から護る目的もあったのだろう。
彼は潜んでいたゴーレムの中から飛び出した。そのために必要な魔力だけを温存していたのだ。これだけ大きく作ったのも、氷の魔女に全魔力を使いきらせるため、そしてその状態で決着をつけるには、自分もほぼ全ての力を使う必要があると分かっていた。
魔力も尽きた魔女は、驚きもあってか足が止まっている。いや、気づいてもしばらくは動けないだろう。悪魔との契約で奴の体は常人よりもずっと脆い。
「自分のことは、もう痛め付けた」
彼には三つ、氷の魔女が口にした中で訂正したい言葉があった。一つ目は、かつて氷の魔女が彼女のことを弱いと言ったこと。彼女の意思は、まず間違いなくこれまで会ってきた誰よりも強かった。
自分自身、体力を使いきってヘロヘロの体を、しゃにむに動かす。こんな千載一遇の好機は、絶対に逃さない。戦う前から、戦っている最中も、ずっと、ずっと思っていた、一発ぶん殴らないと気が済まない、と。
自分自身は、彼女が死んでから何度も何度も傷つけた。何日も飲まず食わずで徘徊し、そこらのチンピラにわざと喧嘩をしかけ、囲まれてなぶられ、立ち直ってからも血ヘドを吐いて修行した。
氷の魔女は、力の及ぶ範囲全てを凍てつく死の大地にしようとした。きっと彼女はそれに反抗するだろう。悪魔に魂を売った魔女に、そんなことはさせないだろう。彼にできる贖罪はそれだけだと、ずっと鍛えてきた。そしてついに届く時がきたのだ。
二つ目の訂正は彼女の魔法が詰まらないものだということ、寂しさを紛らわすことしかできないというもの。この魔法で救われた人もいれば、彼女は友人を作った。彼女の力は友を作る魔法であり、愛する人を護る魔法だった。
迫り来る、鬼神のような形相の少年に、ここ百年ずっと負けなしだった氷の魔女に、初めて敗北の二文字が迫っていることを感じさせた。負けた際には悪魔に魂を引き渡す、そういう契約になっている。しかし、逃げようにも飛ぶ魔力も走る体力も残っていない。
彼の拳が、魔女の頬をとらえた。その頬は冷たいが、氷のような冷たさでなく、まるで死人のように暖かみが無いと表現する方が正しかった。人間を殴っているのとは、全く感じの違う、異質の感覚。だが、ついに捉えたのだ。
歯を食い縛り、足腰から全力で踏ん張る。軋む全身のバネを使って拳を振り抜いた。あまりにも軽く、人間離れした体が宙を舞う。
というのも当然だった。氷の魔女はとうの昔に本来の肉体を失っていた。悪魔と契約したその日から、彼女はその莫大な魔力と魂だけを朽ちぬ人形の中に収納させていただけだった。
敗北、契約履行の条件を満たしたため、魔女の魂は悪魔に引き渡された。魂を失った人形は、地面にぽとりと落ちると、そのままもうピクリとも動かなかった。
そして三つ目、土の魔女は誰からも愛されていなかったというもの。
「いたんだ、少なくとも一人は、確かに」
魔女が呼んだ鉛色の雲は次第に散りつつあった。春の柔らかな日差しが彼へと降り注ぐ。
こうして、長かった彼の戦いは幕を閉じた。