「問おう、君の勇気を」
路地裏に追い詰められた彼は、そう呟いた。大粒の雨が地面に打ち付けられる中に、溶け込んでしまいそうな声なのに、その雨粒の雑踏を掻き分けるように彼の声はするりと私の耳に届いた。ただでさえ街頭から離れた夜の路地裏は、空が泣いているせいで、より一層に陰る。詰め寄ったお互いの表情だけが見える闇の中で、私は胸中の激情をただひたすらに彼にぶつけていた。彼の問いに答える必要など無い、私は無言のままにその質問など掃いて捨てた。
雨を吸って重くなった彼の襟首を掴んだ手にこめる力を強め、ぐいと手元に引き寄せた。じわりと、あまりにも染み込んだ滴が浮き上がり、雨に混じってポタリと落ちる。私に追い詰められ、壁に押し付けられていた彼の体は、首元を視点としてぐいと引っ張られた。苦しいなとぼそりと口にしたが、その声は裏腹に、淡々としたものだった。
襟を力任せに引っ張り、シャツのボタンを縫い付ける糸ごと引きちぎるように捨てる。勢いよく弾けとんだボタンは、地面を跳ねる声を土砂降りの雨音に書き消されながらどこかへと消えた。目の前に現れた、彼の病弱な白い柔肌に、私はナイフを突きつけた。研ぎ澄まされた刃が首筋に触れただけだが、薄皮一枚程度は簡単に裂け、じんわりと滲むように彼の血がナイフの刃に沿うように走った。
ただそれも、顎から伝う液滴に飲まれて、すぐに流されて消えてしまった。怖いなと、ちっとも怖くなさそうな声で彼は私に告げる。先程から彼が私に抵抗できない理由はまさに、私が彼につきつけたこの小さな刃物である。わざわざ高い金を払っただけあって、人の肉くらいは容易く切れる。
「それで、君は誰かな」
ふと、身に覚えがないかのように彼は尋ねた。先程から取り乱さず、整然とした様子で語りかけてくるその様子は、彼が犯した罪とは裏腹にとても理知的に思えた。
私のことを歯牙にもかけていない、その事実になおさら私の身の内に潜む、怒りの炎はうねりを上げて燃え盛る。あるいは白々しくもとぼけているというのだろうか。
ふざけるな。噛み締める奥歯の向こうから、血の味が広がる。私は片時もお前のことを忘れたことはない。大切な者を失って以来、ずっと自分の中に溜まっていた群青色の感情。この雨のようにずっと、私のことを湿っぽく濡らし続けた深い深い喪失と悲しみは、紛れもなく目の前の男がもたらしたものだ。
「とぼけるな」
「ふむ、女の子がそんな言葉を使うものじゃないよ」
傘すらさしていないのは、彼だけでなく私も同じなので、同様に私自身も夕立に濡れそぼっていた。制服のスカートはぴっちりと太ももに張り付き、上はというと色気の欠片もない下着が透けている。鬱陶しいことに私の首筋には髪がぺったりと寄り添っており、一歩踏み出すごとに靴下から水が滲み出した。けれどそんなものは些末なことだ、私の胸に灯り続ける憎悪の炎は、それすら忘れさせるほどに荒れ狂っている。
「お前なら、どうせ見たことあるだろう」
「あいにく、女子高生、それとも中学生か? どちらでも構わないが、そういった知り合いはいなくてね」
追い詰められたというのに、私の気まぐれでその喉は引き裂かれるというのに、まだまだ彼は余裕だった。追い詰められた実感が無いというのだろうか。私がただの学生だから、刃物を持って息巻く子鹿に過ぎないから、理由なんてどうでもよくて、その余裕が苛つく。私は手にこめる力をより一層強くした。薄皮一枚で留まっていた傷は少しだけ深まり、赤い血がだらりと流れる。
「何だ、脅しているつもりなのか」
こうすれば少しは萎縮するだろう。そう思って刃を押し当てたことが読み取られたようだった。幼稚だなと吐き捨てるような物言いに、私はさらなる怒りを覚えた。この期に及んで、その立場で私を辱しめるのかと、私は勝手に凌辱されたような想いに駆られる。
ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな。押し当てたナイフを一度離して、逆手に持ち帰る。そのまま、彼の顔目掛けて一息に突き刺す、ように見せてすぐ隣の壁に突き立てた。
甲高い、金属同士がぶつかる音を立ててナイフは彼の顔を抉るギリギリの位置で、パイプと接していた。流石の切れ味とはいえ、流石にこういったものまでは切れないようだ。
ただ、そんな小さなことよりも、ずっと気にくわないことは、それだけして脅かせて見せても、彼は瞬きをする以外はまるで表情を変えないことだ。真顔のままのその様子は、無言で「ほら何もできない」と煽っているようで。
心の中を見透かされているようで、さっきからずっと身体中が熱かった。この熱さは、怒りは、今日という日まで片時も忘れたことの無い怒りとは違ったものだ。やることなすこと、ただ挑発に乗るだけ、相手の思うようにしか動いていない自分自身への恥じらいがない交ぜになった叱咤だ。身を焦がすような、恨みに溺れて脳髄を燃やすような、復讐のために我を忘れるような、あの吐き気のする類いの激情とは、違う。
「相浦 朝子」
もうどうにでもなれ、そう自棄になった私はその名前を出すことにした。ようやくだった、彼の表情が変わったのは。口はつぐんだままだが、真ん丸に見開かれた目は彼の初めての動揺を雄弁に物語っていた。
確かに私たちはあまり似ていないと誰からも言われるような姉妹だった。だが、よくよく眺めるにしたがって面影を見つけたのだろう。
「まさか、君は……」
「妹です」
いい気味だった。やっとこの男から動揺を引き出せて、私はほくそ笑んだ。先程までの、焼けてとろけた鉛が体内を流れるような痛く熱すぎる恥辱は消え去って、心地よく暖かな優越感が得られる。
これだけで、姉の敵を討ったような気分だった。見知らぬストーカーに付け狙われ、今日と同じような夕立の日、路地裏でその人に襲われ、一人きりで寂しい中、ぐしょぐしょに濡れながら失血死していた。凶器は腹に刺さったままのナイフだった。
あの日の姉はどれだけ怖かっただろうか。想像するだけで私は、居合わせることができなかった情けなさに震える。寒空の下で血を失い、だんだんと冷たくなる体温で、彼女はどんな想いに駆られたのか。友達と浮かれて遊んでいただけの私には分からない。
なぜ、あの日に限って。後悔はいつも先に立たない。姉から相談を受けていて、ずっと二人で出歩くようにしていた。断る私を押しきるように姉は、事件の日に、たまには私も遊んでこいと出掛けさせて、そして一人でいるところを狙われた。
必ず犯人には同じ目を見せてやる。そして自分がしてきたことを悔いさせて、後悔の中で殺してやる。たとえ自らの将来を犠牲にしてでも、やり遂げようと決めた。それだけが、唯一私にできる贖罪だ、と。
やっと、叶った。姉の周囲の人間関係を探り、目ぼしい者に目をつけ、執念深く調べあげた甲斐があった。報われた、そう思って安堵の息を漏らした時だった。それがいけなかったのか、それ以前にそもそも軽んじられていたのか、原因は分からない。それでも確かなのは私が勝利を確信し、追い求めた目標を達成したと甘美な充足感を得たその時だった。彼は、動揺をもう隠しており、またあの無感情な目で私を観察するように見ていた。
「満足したようなら、解放してもらおうか」
今は首筋に刃が突きつけられていないことをいいことに、彼はゆうゆうと歩き出そうとした。何をしているのかと、私は再び左腕に力をこめ、壁に押し付ける。パイプに突き立てていたナイフも、もう一度喉仏に触れるほどの距離に近づけた。
「まだ、何で終わると思ったの」
「なぜ? それはもう君は無言で答えただろう」
路地裏に入った際に問うたはずだと彼はいう。私に、勇気はあるかと。人を殺す勇気が、罪を犯す勇気が、という意味だろうと思い黙殺したものだ。別に無言で答えた訳ではない。私は声に出さず彼の主張を再び黙殺する。瞳の色から、答える気が無いことを察した彼は、私の代わりに口を開いた。
「君はどうやら、目を背けているようだね」
聞いちゃいけない。私は、独りでに震え始めた手にぎゅっと力を込めようとする。ただ、体が言うことを聞かない。動け動けと念じてもナイフは柔らかそうな喉仏を貫かない。どうして……私は私の体のままならなさに絶望する。
「君は私が尋ねた言葉の意味を理解しているはずだ」
「……黙れ」
「おそらく君もお姉さんに似て聡明なのだろう、ちゃんと私が尋ねた真意に気づいた。気づいて蓋をしたんだ」
「……黙れって」
「あの問いの真意は、君からお姉さんを奪った同じ手口を君に実行する勇気があるかというものだ」
「黙れっつっんだろ!」
「君は答えられなかった。答えなかったんじゃない。決心が粉々にならないよう、否であると言葉にできなかった」
うるせぇよと、か細い声が私の喉から漏れた。その声は今や他人の声のようで、先程までの怒りを、憎しみを、責任感を何一つ載せていない、空っぽの言葉だった。ざぁざぁと騒ぐ雨が私たちの声を夜の闇に紛らす。
このまま、私の躊躇さえも溶かしてくれればいいのに。そう思っても、ダムが決壊したようにあふれでて無くなっていくのは、敵討ちの決心だけだった。
体が言うことを聞いてくれない。震えはさっきよりも、ずっと強くなっていた。怯えなんかじゃない、これは武者震いだ。言い聞かせるように指先に力をこめる。それなのに、指先からナイフはこぼれ落ちた。
カランコロン。取りこぼしてしまったのは、ナイフだけじゃなかったようだ。そのまま全身脱力して、膝から崩れ落ちる。水溜まりに映る影を眺めてみても、自分の顔がどうにも真っ暗で、見えなかった。
私は誰なのか、何を思っているのか。本心は? 本当にしたいことは? 何一つ分からない。
「代わりに答えよう、君に勇気はない」
解放された彼はそう告げ、大通りへと戻っていく。水溜まりを踏む足音が段々と遠ざかっていく。
追わなきゃ。追わないの? どうして? もう機会なんて。どうせできやしない。そんな声が、あちこちから聞こえてくるような思いだった。声の主は、全て、自分自身。
「あぁあぁぁぁあああぁ……」
夕立は、憎んだ敵と共に去りつつあった。五月蝿かった雨音は、段々と遠退いていく。
もう私には、自分の号哭しか聞こえない。