Re: 賞賛を添へて、【小説練習】 ( No.90 )
日時: 2018/01/21 01:19
名前: あんず (ID: EQksipN6)

「問おう、君の勇気を」

 つけっぱなしのテレビから、その言葉だけが耳に飛び込んだ。目を上げた先の古そうな外国映画。微妙に雰囲気の合っていない吹き替えの声がリビングに流れている。色褪せた画面、主人公と悪役が戦っているらしい。安っぽい、昔のアクション映画だ。
 薄暗い部屋の中そのテレビだけが光源で、チカチカと頼りない。棒読みに近い俳優の声が耐え難くて音を消した。パクパクと、声を失くして口を動かす姿が滑稽で白々しくて目を逸らす。
 リモコンを掴んだ私の手はまだ震えていた。

「あーあ」

 手に持つリモコンを放り投げる。ガシャンと硬質な、重たいものが落ちる耳障りな音がした。壊れたかな、まあいいや。足元にころころと単三電池が一本、転がってきた。それを今度は蹴飛ばして、はあと溜息をつく。なんだか無性に落ち着かない。
 倒れている目の前の男を見たくなくて、片目を瞑って視線を落とす。左手は震えたままだ。その先にある台所包丁も、まるで腕の延長みたいにぴったりと握りこまれて震えている。離そうとしても手の力が抜けなくて、自分の体なのに変な気分。頭ばかりが冷静で、空いた右手でダイニングテーブルの上のスマホを開いた。ホーム画面に並ぶ目の前の男と私の写真。楽しそう、不愉快なくらい。あとで絶対に変えよう、ついでに写真も消してやる。イライラしながら、電話帳の一番上、見慣れた名前を指で弾いた。

『もしもし?』

 数コールのうちに出た彼女の声は不機嫌そうだった。多分今もパソコンを睨みつけながら、タバコを吹かしているんだろうな。ここにまで紫煙の香りがしてきそうなくらい、それは容易く想像できる。咳き込みそうなくらい煙たくて、苦くて少し甘い彼女の煙草。

「私、あいつのこと殺しちゃったよ」 
『そっか』

 そっけない返事。仮にも人を殺したと宣言した人間に放る言葉とは思えない。思えないけれど、この女はいつだってこういう奴だから仕方ない。今、目の前で倒れている男が遂に薬に溺れたときも、酒に溺れたときも、この女の反応はこんなものだった。世間話をしているときの方が、もっとまともな言葉が返ってくる。

『それで?』
「……え」

 答えに詰まった。何て言えばいいだろう、どこまでこの女は私を許してくれるだろう。
 電話越しにカタカタとタイピングの音が聞こえてくる。音が変に大きくて鋭いのは多分、彼女のネイルの施された長い爪が、キーボードに当たっているからだ。私は想像する。彼女はスマホを耳と肩で挟みながら、しかめ面でパソコンの画面を見ている。そして紫のラインの入った、あのけばけばしいケースから煙草を取り出して火を付ける。深く吸い込みながら、また画面を見つめる。あの煙草の銘柄は何だったか、もう忘れてしまった。

『逃げるんでしょ?』

 逃げるの? どこに? 私が聞き返したい。でも彼女の中では、そういうことになっているらしい。さも当然というように彼女は返事を待っている。多分、煙草を深く味わいながら。
 逃げる? もう一度床を見回した先に、倒れ伏した男と濃い鉄さびの匂い。ドラマのワンシーンみたいだ、私は別に俳優ではないけど。ましてや私は、探偵や刑事じゃなくて犯人だけれど。非現実感ばかりが漂うこの部屋は、私がこの手で作った。そうか確かに、こんな状況じゃ自首するか逃げるか、そのくらいしかすることがないかもしれないな。だからといって自分から警察に行くのも、何だか億劫だった。

「……うん。逃げるよ」

 そっか、と少しだけ安堵したような声がした。少しだけ電話越しの声がやわらいだ。
 震えの止まった手から包丁を放したら、ガシャンと随分甲高い音。思わず顔をしかめる。うるさい。大きな音だったから窓を見やったけれど、カーテンを締め切ったそこにはもちろん人影はない。

『じゃあ今からそっち行くから。家でしょ?』
「うん」
『ちゃんと準備しててよ』

 準備? 聞き返す前に、ヒステリックに回線は途切れてしまった。全くせっかちだ。そんな場合でもないのにいくらか彼女への悪態をつきながら、棒立ちだった足を踏み出した。あまりにもじっとしすぎて膝が痛い。
 よろめきながらキッチンの水道を捻ると、水が勢い良く流れ出した。手に張り付いた血はまだ乾いていないまま、簡単に流れ落ちた。綺麗になった手を石鹸でこする。痛いくらいに。きっと、こんなに洗ったって警察が調べたら一瞬で分かるんだろうな。ドラマでよく見る、あの血を見つける検査みたいなやつで。でも綺麗に見えるから良いや。かかっていたタオルで手を拭って自分を見下ろす。
 所々に血が跳ねているけれど、別に驚くほどじゃない。コートを着れば十分だ。今が冬先でよかった。

 部屋に戻って、クローゼットの奥からボストンバッグを引っ張りだした。埃を被ったこのバッグを使ったのはもう随分と前。多分、高校の修学旅行。開くと、パンフレットらしきものが数枚散らかっていた。京都、とでかでかと印刷された文字。やっぱり。修学旅行のしおりだ。まだ捨ててなかったんだ、いつまでも片付けられないところは変われない。それでもなんとなくもったいなくて、よれたしおりを再びバッグに仕舞い込んだ。どうせならこいつも連れて行こう。

「着替え……何持ってこう」

 とりあえず下着と数枚の服を突っ込んだ。うまく入らなくて、イライラしながら無理やり詰め込んだ。それから、どうしようかと首をひねる。逃げるって言ったって。バッグを意味もなく引っ掻き回して、しおりを手に取った。パラパラとめくると、持ち物の書かれたページが目に入る。昔の私がつけたボールペンのチェック跡と一緒に。
 これでいいや。逃げるのも旅行するのも、多分やることにそんな変わりはないだろう。世の犯罪者の方々がどうしているかなんて知らない。でも一人くらい、彼女も入れると二人くらい。旅行気分で逃げたって誰も怒らないはずだ。
 昔やったみたいに一つ一つチェックをつけながら、ボストンバッグの隙間を埋めた。コートを着込んで、マフラーをぐるぐる巻き付けて、雪でも降りそうな空を窓から見上げた。

>>91