『毒にも、薬にも』 お題【毒】
「貴女みたいな人を、毒にも薬にもならない人っていうんでしょうね。鉢屋」
執筆する手を止めることなく、こちらに目線を向けるわけでもなく、彼女は、先輩は、まるで独り言でも呟くか如く机越しの私にそう言った。
あまりにも自然に繰り出された彼女の突然の発言に戸惑いながら、私はその言葉の返事を探す。彼女の真意を測りかねながら。
「えっと…もしかして、馬鹿にしてます?私のこと」
「違うわ。褒めてるのよ」
やはりこちらの方を向くことなく、彼女は私の問いかけにそう返した。どう考えたってそうとしか思えなかったが、彼女の中でどうやらアレは褒め言葉だったらしい。凡人の私には彼女の言葉が理解できない。それはいつものことだけれど、今日の彼女の言葉はいつにも増して摩訶不思議だった。
目の前の先輩、草薙すずめは中学三年生という年齢でありながら、いくつものベストセラーを書き上げた今話題の天才若手作家である。
一言で言えば、彼女と彼女の作品の魅力は"美しい"ただそれに尽きる。文章力、構成力もさることながら、何度も読み返したくなるような舌触りのいい言葉のセンス、かぐや姫の生まれ変わりだと言われても信じてしまいそうな彼女自身の美しさに、彼女の作品に惹かれ近づいた人間、反対に彼女の美しさに惹かれ作品を読んだ人間は、皆息を漏らし、そして納得する。
彼女と彼女の生み出したものたちはまさに一体だ。彼女の作品はそのまま彼女自身であり、そのどちらもが筆舌に尽くしがたいほど美しい。
彼女たちの熱狂的なファンは多く、彼女の後輩である私、鉢屋三葉もまたその一人である。
今でこそ彼女とこうして話しているけれど、私は凡人以外の何者でもなく彼女の言う通り毒にも薬にもならない、ただの人だ。
私と彼女が出会ったのに意味なんてなかった。必然なんてなかった。
私がただ、文章を好きで。彼女もまた文章を好きだった。ただそれだけだった。
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何となく文章を書くことが好きだった。
だから、中学では文芸部に入ろう。そう決めていた。
そうして足を運んだ大して広くもない部室でたった一人黙々と執筆をしていたのが彼女だった。
「部員はワタシしかいないわ」
黒髪のセミロングをほんの少し開けた窓からの風に靡かせながら、彼女はそう言った。今と変わらず、私の方なんて少しも見ずに。初め、私はそれを天才故の傲慢さからの態度だと思った。彼女のことは、この時点でもう知っていた。自分とは違う世界の人間。そういう認識で、不躾な言動にも怒りすら湧いてこなかった。
「皆、辞めちゃったから。ワタシ以外ね」
だけどすぐに分かった。
そう呟く彼女の横顔があまりにも哀しげで、寂しそうだったから。
彼女はちゃんと人間だったんだと、そんな実感が、やっと湧いたような気がした。
人伝いに聞く彼女はまるで神話に出てくる女神のようで、それまで私は他の人々ように熱狂的になれないでいた。彼女の文章は読んだことはあった。面白いと思った。彼女の顔は見たことがあった。美しいと思った。それだけだった。本当に、ただ、それだけだった。
彼女もまた私と同じ人間なのだと分かって、途端に溢れてきたのは彼女に対する愛しさだった。
何も考えられなくなった。高熱を出した時みたいなふわふわした気分で、気がついたら、こう呟いていた。意識して、彼女に向けたものではなく、ただ自然と口から出ていた。
「好きです先輩」
「……え?」
「私、先輩のこと、好きになっちゃいました」
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「出会い頭にあんなこと言われて、ちょっと怖かったわ。…告白はされたことはあったけれど、貴女みたいに押しの強い人ははじめて」
「褒めてます?」
「貶してるわ」
そう話す彼女はやはり私の方を見てはくれなかったけど、どこか照れているような、ばつの悪そうな顔をしていた。
二年前のあの時と比べて、綺麗だけれど無表情が多かった先輩は少しだけ感情豊かになったように思う。文芸部の部員は相変わらず私と先輩の二人だけ。私が話しかけ、先輩はこちらを見ずに答えるだけ。だけど変わったこともある。
「先輩、こっち向いて」
私の言葉に先輩は素直に手を止め、こちらを見上げる。目を瞑っているのは無意識なのだろう。先輩のまるごとを貪り食べてしまいたい欲望を飲み込んで、唇を合わせるだけの優しいキスを落とす。下顎を軽く撫でると、先輩は私にだけ聞こえる音量で甘い声を漏らした。
「ん……ね、ねぇ。三葉。ワタシが卒業しても、ずっと一緒にいてくれる?そう、約束してくれる?」
「先輩、内部進学ですよね?大丈夫。あと三年は一緒にいれますよ」
「!…そ、それじゃ駄目。約束して。卒業しても、高校生になっても、大人になっても、ずっと一緒にいるって」
「………」
私が黙っているのを見て、私の服を先輩がぎゅっと握りしめ、今にも泣き出してしまいそうなそんな表情になる。答えなんて決まっているのに、口に出さない性格の悪さには我ながら笑えてしまう。
先輩は天才で、そして孤独だった。先輩の才能と美しさは周囲を殺す毒で、周りを依存させる麻薬だ。だから誰もいなくなった。天才だけど、ちゃんと人間な先輩は、それが苦しくて、寂しくて、仕方なくて。
先輩からしてみれば、私は彼女の薬なのだろう。孤独を埋めてくれる薬。本当は毒にも薬にもならない何の変哲もない人間なのに、彼女には私しかいないから。そう思わせたから。騙されて、貴女は私の言葉を飲み続ける。
可哀想な先輩。毒や薬にしかなれなかった、可哀想で、愛らしい先輩。
絶対に手離したりするものか。
「…一緒にいますよ。先輩が私といてくれるなら、ね。ずっと」
私がそう答えると、先輩は嬉しそうに、心底嬉しそうに潤んだ目で笑った。そして自分からゆっくりと私の唇に自らのそれを合わせた。全身で私を抱き締めて、私の体温を確かめる先輩は、まるで溺れている者が助かるために何かを掴もうとしてる様に似ていた。溺れているのは私も一緒で、掴んだ先は、一緒に沈むしかないのに。
「……大好きよ。三葉」
今はこれでいい。対処療法的な薬でいい。貴女の孤独を紛らすための、代替のきく有象無象で構わない。
だけど、いつかは、絶対。
「……私もです」
貴女を殺す致命的な毒に。