Re: みんなでつくる短編集【SS投稿交流所】 ( No.16 )
日時: 2020/06/05 19:39
名前: ひが (ID: 6J53CjAQ)


 雨の臭いがする。嫌な臭いだ。埃っぽくて、じめじめとした、人を不快にさせる臭い。私の全身を濡らしながら、滝のような雨が地面を撃ち続ける。喝采のように思えた。世界がその手を幾度となく打ち鳴らし、私の使命の達成を祝福してくれているのだろうと。違った、例えこれが自己満足のスタンディングオベーションだったとしたら、どうして濡れそぼった私の服は、こんなにも重たいのだろうか。錘のようだった。私の歩みを鈍らせ、思考を曇らせていく。
 これは現実から目を逸らすためのものだ。今度はそう割り切ろうとした。無理だった。湿っぽい空気と裏腹に、乾いた号砲を響かせる雨滴の粒が、私の罪を滲ませていく。とても綺麗で、鮮やかな赤色。傷口の血はどす黒くて、勢いがないままだらしなく漏れるように溢れ出た命の雫は、汚れた雨に打たれて次第に鮮紅色へと姿を変えていた。この雨が隠蔽のためのものであれば、こんな風に彼の死を、象徴的に、誇張して私に見せつける必要はなかっただろう。
 彼の身体には今、風穴が二つ開いていた。一つは胸、心臓付近に穿たれたもの。もう一つは額、動かなくなった彼の死を、誰の目から見ても決定的なものにするための銃創。それはいずれも、他ならないこの私がつけたものだった。
 この雨は糾弾だ。茫然とし、膝を折り、身動き一つとれないままの私が行きついた結論は、そんなものだった。それまでに思い浮かんだいくつもの可能性、そのどれもが現実味を持っていなかったのに対し、この終着点だけはきっと間違ってはいないと理解できた。だって、私の背を叩くそれは、まるで銃弾のようで。降りしきり、圧し掛かり、肩に荷を乗せてくるのは罪の意識を表しているようで。何より、喝采だと思っていた血を叩く雨粒の声は、きっと祝砲でも何でもなく、罵詈雑言の雨霰のように聞こえてきたからだ。
 両手が痺れていた。小型の拳銃とはいえ、華奢な少女に過ぎない私の手に余る反動がするものだから。両手でしっかりと握って撃ったにも関わらず、肩が外れてしまいそうになる衝撃。物理的な覚悟が必要だったが、それ以上に精神的な覚悟が必要だった。指全体がじんじんと麻痺していて、とうとう拳銃の重みにも耐えかねて零れ落ちてしまった。かしゃんと、小さな音を立てたが、それも驟雨の営みに紛れていく。どうして今なのだろう。撃つ前から拳銃を握っていられなかったら、きっと撃つこともなかっただろうに。
 私の目の前で、壁に寄りかかるようにしてこと切れている男は、私とは一回りどころか、二回り以上歳が離れていた。ジャーナリスト、そう呼ばれるものを生業としているらしい。それが指す仕事を私は知りはしなかったが、私にお金をくれる大人たちにとって、邪魔な人間だったらしい。
 初め私に与えられた役割はあくまで監視だった。最近嗅ぎまわっていると思しき人間のお目付け役として、年端も行かない少女に過ぎない私が選ばれた。理由は私にもすぐわかった。この人は、正義の味方だった。そしてそれと同時に理解したことがもう一つ、この人はきっとろくな死に方をしないということだった。
 貧しい格好をし、わざと階段から転げ落ちて青あざだらけの私を見つけ、彼が保護するまではすぐだった。彼の住処の玄関付近、茶色く、烏の糞が手すりについたままのベンチに座っていたら、買い物に出かけようとした彼に保護された。
 両親に虐待されるいたいけな児童を装った。実家に送られることをひどく怯えた素振りをして、素性を明かさないままを貫いた。警察に相談すると実家に帰されるから止めてくれと懇願した。親なんて、物心つくまえに死んでしまったと言うのに。
 わざとつけた傷から滲んだ血と埃、砂とに塗れた襤褸のワンピースの肩ひもに手をかけて「何でもするから」と交渉した。けれどこの男は、その誘いには乗らなかった。だが、帰りたくなるまで守ってやると、私に衣食住を提供してくれた。
 代価として家事をすることとなったが、その程度は雇い主たちの下で習得済みだった。男には、「親にご飯も掃除も押し付けられていた」と嘘をついた。彼は簡単に信じた。
 その後の日々は、思い出したくない。それに囚われてしまうときっと、私という人間は二度と立ち上がれなくなってしまうだろうから。
 雨は嫌いだ。私の両親が死んだ理由も、雨だったらしい。私がまだ、生まれたばかりで、ドライブをしていた時、雨にタイヤを取られて交通事故に繋がったらしい。私が生き残ったのは奇跡で、そうでなければ今頃は、天の上で一家団欒していたことだろう。その後、独りぼっちの人生にいいことなんて一つもなかった。雨は嫌いだ、一度ならず二度までも、私の家族を奪って行った。
 私は男の監視を馬鹿正直に行っていた。彼が何を調べているか、いつ頃取材に向かっているのか。誰と情報を共有しているのか。それをつぶさに報告した。監視の延長線上に何が待っているのか知りもしないで。
 そう、まさに今日だった。まだ曇り空に過ぎなかった頃、組織の上司に今週の報告を終えた時のこと。彼の暗殺が決まったのは。凶器は手渡された拳銃だった。犯人役として一人死体を用意しているから、自分に前科が憑く心配はしなくていいと上司は言った。
 その後のことは、何も覚えていない。しくじったら、どういった末路を辿るのか私はよく知っていた。仲の良かった人たちが何人も、その末路を辿っていたからだ。そして、ここで私がこの正義の味方を逃がそうとしたところで、彼が他の刺客に殺されることに変わりはない。私に選ぶことができるのは、私自身の生死に限られていた。
 雨は嫌いだ。憎たらしくて、見るだけでうんざりしてくる。その筈なのに、私はどこか今日の雨が必要なものだったと感じ始めていた。もう動かない、私が殺した彼の表情を見る。脳天を貫かれているというのに、その表情はいつも私に向けていた、優しい保護者の顔をしていた。
 初めに胸を撃ち、壁にもたれかかった後。私がその銃口を彼の額につきつけたその瞬間。彼はひどく申し訳なさそうな顔をしていた。うすうすそうなんじゃないかと疑っていたのだと、言及しなかった自分の甘さを彼は笑っていた。笑いごとじゃないというのに。
 彼が最後に、私に伝えようとした言葉は、雨音と銃声とに塗りつぶされて、目標も定まらないまま虚空を独り歩きし始めてしまった。
 雨が降っていてくれて良かった。吐息を漏らすように呟いたその最期の言葉を、聞かずに済んだから。その言葉が呪いとなり、鎖となり、茨となって、私を締め付けることはきっと無いだろう。
 雨がふっていてくれて良かった。命を示すこの赤が、私の瞼の裏に焼き付いてくれた。きっと私は、この罪を忘れることができないだろう。
 雨が降っていてくれてよかった。流した涙を、なかったことにできるから。自分で選んだ道だ、後悔なんて似合う訳が無かった。
 雨が降っていてくれて良かった。彼の息遣いを聞かずに済んだ。彼の吐息が止まるその瞬間を、知らないでいられた。
 雨が降っていてくれて良かった。私の号哭さえ塗り潰して、上司たちからも隠してくれる。
 やはり、雨が降っていてくれて良かった。雨のせいにする訳にはいかないのだから。雨が私の幸せを奪っているのではなくて、たまたま私が不幸のどん底に陥っている時、驟雨が通りかかるだけだ。
 だから、きっと、私の中で振り出したこの雨が、止んでくれることは決して無いだろう。晴れる兆しなんて見えないのに、傘も差さずに、私は頭を垂れるように蹲ったまま、一寸たりとも動けずにいたのだった。









②のお題で参加させて頂きました。
他の方へコメントする余裕が私にはありませんので、特段私にコメントは下さらずとも気になさらないでください。応答が無い可能性があります。むしろ高いです。
ですがもし、最後まで読んでくださった方がいらっしゃるなら、お礼だけ述べさせていただきます。ありがとうございました。