Re: みんなでつくる短編集【SS投稿交流所】 ( No.17 )
日時: 2020/06/05 19:45
名前: ずみ (ID: adrD0C/g)

お題「雨が降っていてくれて良かった」

 酷い雨だった。
 五月の中旬、音を立てて降り注ぐそれらは風物詩と言うには些か主張が強すぎて、いつもならば余りの喧騒に耳を塞ぎたくなっていたかもしれない。
 一つの水滴が、頬を伝って転がり落ちる。そのままやがては地に落ち玉砕する。でもそれらは雨に交じっては意味を成さない。私の抱くこの感情さえも、空から降り注ぐ雨が誤魔化してくれていた。
 上を見ても下を見ても、どこまでも景色は灰色だった。余りに色の少ない景色。死んだ街並み。いや、死んでいるのは私だろうか。まあ少なくとも、悪い心地はしなかった。余計なものがない世界は、傷に触れるものがないから。
 ああ、いっそ全てを洗い流してはくれないだろうか。この穢れた私の身も、頭に染み付いた記録も、写真に残る楽しそうなワンシーンさえも。全てまっさらになってしまえばいいのに。そしたらこんな気分だって、きっとまあ晴れるに違いないのに。
 雨が降っていて良かった。もしも今の天気が晴れならば、私は否応なく思い出してしまうのだろう。君といつか巡り逢ったその日の事を。どうしようもないくらいに茹だるような暑さの、見上げれば海に白が泳ぐ晴天の日。私たちの出逢いは言い逃れできないほど恣意的で、運命などとはとても言えないものだったが、それでも私はあの日あの時、あの場所で『逢った』のだ。その事実は変えようが無い事実ではあるし、歪めようのない真実であった。
 お互いに深く、愛していた、はずだった。でも間違ってたみたいだ。それは私の勝手な独りよがりでしかなくて、私はそれが耐えられなくて。そして気付けば、失っていた。誰が失わせたのと言われたら、きっと答えは私なのだろう。
 もしも今この手に、君の感覚が残っていたとしたら、私はどうしたんだろうか。それを愛おしそうに頬擦りしただろうか。裏切り者の残り香を憎んだのだろうか。もう既に流れ落ちてしまったそれは、今更追いかけることも取り戻すことも出来ないし、ましてやそんな事をしたいとは思っていないので、本当にどうでもいいことなのだが。
 本当に、なんの意味があったのだろう。とても短いとは言えない間の中で、目まぐるしく感情を乱高下させ、身体を何回も交わらせ、何度だってお互い証明しあったはずだ。それなのにいつからか、感情は死に絶え、優しさも失い殴り合いみたいに身体を重ねるようになり、お互いの感情を証明することが怖くなっていった。こんな関係、続けるのは馬鹿馬鹿しいものではあったけれど、でも失ってしまえば、それこそ私はただ馬鹿になってしまう気がしていた。結局、私はその馬鹿になってしまったのだけれど。
 もし意味があるとすれば、多分それは本当に最後の最後だけだったのだろう。
 愛する人を、自分だけのものにする感覚。心の中のみに閉じ込め、私以外の誰とも関われなくすること。その感覚と行為のみが、私が得たものだった。
 その際生じた目が痛くなるような彼の赤も、黒も、さっきまで私にこびりついていたはずだったけれど、いつの間にか流れ落ちていた。誰かにあの人を見られることも無かった。蔓延る鉄の匂いだって、誰か他の人に知覚されるより先に、流されてしまうのだろう。そうやってあの人の全てが洗い流された頃に、あの人は本当に私の心の中だけのものになる。

 ああ、本当に。

 雨が降っていて、良かった。