「 嫌いなひと。 」
唐突なテスト返却。そこで私は18点の物理の結果にご対面した。ぶっちぎりの最低な結果を見た瞬間、私はおにぎりを作るようにぎゅっと強く握りつぶしてカバンの中に突っ込んだ。どうしよう、と一瞬の焦りを見せたけれど、そんなことで動揺してちゃいけない。これくらい平然と私はお母さんに見せられる。そりゃ雷が落ちてくるのは決定事項かもしれないけれど、そんなのテストを受けた時からわかってたことだし、そもそも私がいい結果を持って帰ってくるなんてお母さんは微塵も思ってないはずだ。大丈夫、大丈夫。何度も繰り返しその言葉を心の中で唱えたけれど、私の心臓のバクバクは止まらなかった。
放課後、窓の外を見ると雨が降っていた。土砂降り、というのがぴったりの雨。地面に打ち付ける雨音がまるでお母さんの怒りのようで、私は帰る気が少しだけ失せてしまった。
「傘、わすれた」
学校に置き傘をしていたのも、この前使ってしまった。この時期は雨が多くて憂鬱だ。スマホで天気予報を調べると、夕方からは雨が続くと書かれてあった。そういや家を出ていく前にお母さんが何か叫んでたけど、あれは傘を持っていけということだったのかもしれない。
迎えを呼ぼうとして、家族の予定を調べた。お母さんは今日はおばあちゃんの介護に行ってるし、お父さんはきっと今日も残業だ。この雨の中びしょ濡れになりながら走って帰らなきゃいけないことが判明して、私はうんざりしながら下駄箱に向かった。
生徒玄関の扉が雨風のせいでガタガタ揺れている。靴に履き替えて外に出ようとした瞬間、大きな雷の光が見えた。目を瞑ってぎゅっと手を握った瞬間、ゴロゴロと大きな音が校内に響き渡った。
「む、無理。死んじゃう、わたし、今日帰れないかも。無理」
雨は嫌いだ。むかしのことを思い出すから。
兄さんが私をひとりぼっちにして、いなくなっちゃったあの日のことを思い出すから。
「なにやってんの、お前」
上から降ってきた声に、思わず私は目を開く。その私を馬鹿にした声には妙に聞き覚えがあった。
「に、兄さん」
私が世界で一番誰が嫌いかと聞かれれば、きっとすぐに答えられるだろう。だって兄の名前をすぐに即答するから。いつだって、私のことを馬鹿にして、私のことを下に見てる。そんな兄が私は嫌いだ。
「何しに来たの」思わず一歩後ろに下がって目を逸らす。兄さんの顔を見たのは一週間ぶりくらいだろうか。こんな時に限って最悪だ。雷が怖いことなんて死んでもバレたくないのに。
「迎えに来てやったのに、酷い態度だな」兄さんは私に傘を放り捨てるとはあと大きなため息をついて頭をかいた。
「っていうか、傘、一本しかないんだけど」
「あー、家にそれしかなかったから」
「じゃあ兄さんどうやってここまで来たの?」
「は? タクシー乗ってきたよ。濡れたくないし」
「傘、なんで一本しかないの、おかしいんだけど、どうやって帰るつもり、って、あ」
「俺にもう一回タクシーで帰れっていうのかよ、ばあか」と兄さんは持ってきた傘を開いて私を呼んだ。ここに入れ、ということなのだろうか。死んでも嫌なのに、それでも有無を言わさないその態度に私は従わざるを得ない。このまま学校から帰れないのも嫌だから。
「どうせ、お前ひとりで帰れないだろ」
持ってきたビニル傘を兄さんが持つ。下手くそな持ち方。兄さんの肩が少し濡れてる。私のことを気にして傾けてくれてるのがわかって、無性にむかついた。
傘にぶつかる雨音が、遠くで鳴る雷の音が、怖くて私は嫌だけど兄さんにぴたりとくっ付いていた。
「別に一人で帰れるもん」
「こんなに雷こわがってんのに」
「そ、それは全部兄さんのせいじゃ……あっ」
水たまりに足を突っ込んでしまって靴下に水がしみた。冷たくって、気持ち悪くて、また変にイライラしてしまう。
むかし、雨が降るのに傘を持たずに兄さんがひとりで出て行っちゃって、馬鹿な私は傘を持って追いかけた。どこに行ったかも知らないのに、きっとすぐに兄さんに届けられるなんて安直な考えで近所を探し回って、結局兄さんはどこにもいなくて。傘をさすのが下手くそな子供の私は、びしょ濡れになって泣きながらおうちに帰った。兄さんはもうすでに帰宅していて、傘立てには新しい傘が置いてあった。
その時の雷の音が忘れられない。兄さんはどこにもいなくて、不安で、いっぱい泣いて、ひとりぼっちで怖いのに、私のそばで大きな雷が落ちるから。嫌いだ、兄さんなんて。大嫌いだ。
「なに、俺のせいなの?」
「別に。そんなことは一切ありません」
「香奈はちっちゃいころは雨の中俺のこと探して泣きじゃくるくらい可愛かったのにな」
兄さんがぼそっと何かを言ったみたいだけど、よく聞き取れなくて私は「なんか言った?」と聞き返したけれど兄さんは「別に」と誤魔化すだけだった。
「てか、何で迎えに来たの?」
「――どうせお前が酷いテストの点とったから家に帰りたくないんだろうなって思って」
嫌みったらしい発言は相変わらずのようで、むかついたので思いっきり足を踏みつけてやった。兄さんの歪んだ顔が何とも美味で、私はあっかんべーをしてそっぽを向く。兄さんの溜息だけが耳元で僅かに聞こえた。
本当は兄さんの左肩がびしょ濡れになっていたことに気づいていた。だけど、何も言わなかった。
それが私たちの関係だから。心配なんかしない。だって私は兄さんのことが嫌いだから。
家に帰ると私は仕方ないからタオルを持ってきて、くしゃみをする兄さんの顔面目掛けて放り投げた。
「風邪ひくなよ、ばあか」
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お題は「雨が降っていてくれて良かった」をお借りしました。相合傘のお話が書きたかっただけです。本当はお兄ちゃんが迎えに来てくれて嬉しいのに、素直になれない双子の妹のお話です。ありがとうございました。