⑥
寄せては帰る波が、手招きするようぼくを呼びつける。こちらへおいでと、深い藍の向こうから声をかける。人っ子一人いない、ぼくだけが座る夜の海だ。砂浜はというと、夏の日差しをすっかり忘れてしまったようにひんやりとしていて、ぼくから体温を奪っていく。
ちりんちりんと、すぐ傍で鈴の音が響いた。ぼくの溜め息をかき消すように、涼やかな音色は響き渡って、闇の向こうに消えていった。
さざなみと、鈴と、溜息と。それ以外は何も聞こえない。耳を背けたいような事実もそうだけど、もう一度聴きたいと願ったものも、全部。
あの女性(ひと)にはもう、夢の中でしか会うことはできない。たとえそれが、水面にぶつかった途端に弾けて消える、泡のように儚い幻想だったとしても、構わない。
もう一度、あの女性の声を聴かせて欲しい。特等席で何度も聞かせてくれた、アリアをもう一度。
ただし、流れ星に願ったところで、叶うはずなどないのだけれど。
潮は満ちようとする最中らしく、いつの間にかぼくの足元にまで忍び寄っていた。
海を眺めていると、あの女性の瞳を思い出す。深海のように底の見えない冷たい藍色なんかじゃなくて、夜の海のように、静かで落ち着いた、万物を飲み込むような深い藍色。
明るい陽射しを浴びる程、鮮やかな青に映る、夏の海みたいに生命力と活気に満ちた目だった。
幼いぼくを膝に乗せて、何度も歌を口ずさんでいた。歌っていることが自分である証明だというように、今ここに生きていると定義するみたいに。喉が嗄れない限り、息が続く限り、歌い続けていた。
その金糸雀のような歌声に包まれた時間は心地よくて、ついつい時間を忘れて眠ることも多々あった。眠りに落ちてしばらくして、気が付いた時にはこんな風に宵闇の中で海に向き合っていたような日もあった。眠りこけたぼくをそのまま抱き上げて、そのまま歩いてきたようだった。
彼女もぼくと同じで、こんな風に暗がりの海を見つめるのが好きだった、と述べると語弊が生じるだろう。逆だ。彼女と並んでみる景色が心地よくて、彼女が好きなものをぼくも同じように好いただけだった。
海沿いの田舎町で、該当も少ないこの土地は流れ星がよく見える。一晩も粘れば、二つ、三つと目にすることができた。ただ、ぼくも彼女も、ぼくのすぐ隣に落ちた流星だけは、すすんでみないふりをしたものだ。
ある朝、その女性は遠くにいってしまった。中々帰ってこなくて、寂しい日はずっと続いたけれども、いつかまた出会えるさと自分を鼓舞した。すぐ傍で鳴り続ける鈴の音は、ぼくが落ち着いていないことを示唆していたけれども、その鈴の音に彼女の歌声を重ねて、何とか辛抱した。
辛抱かなって、ぼくはようやく今日、再会することができたのだった。
家の中のことをいつも取り仕切っているおばあちゃんが、良い匂いのする木の箱を大事そうに抱えて帰ってきた。耳をそばだててみたところ、その中には大切な壺が入っているらしかった。
何となくその匂いの向こうには、どことなく気が落ち着くような香りがした。そんなに重たくなさそうなのに、誰もが両手で大切そうに抱えていた。その殆どの人間が、顔をくしゃくしゃにしていた。
相変らず、ぼくの気分をなだめるような匂いをしていた。その筈なのに、どうしてか、僕の胸はざわざわと騒ぎ出した。悪いものを食べてしまったように、息苦しくて、胸の奥の方がどんよりとしていた。
それなのに相変らず、木箱の中からは思わず寄り添いたくなるような匂いがした。
誰かが気を紛らわすためにラジオのスイッチを入れた。電波に乗って、遠い所から往年の名曲が流れ始める。その時になってようやくぼくは、箱の向こうにある親近感に合点がいった。その事実に、納得なんていかなかったけれども。
箱の中には、壺の中には、あの女性が居たんだ。
それ以来、眠ることもできなくて、一日中寝てばかりだったぼくはというと、眠たくて仕方がなかった。大きなあくびが飛び出るけども、意識が睡魔に攫われてはくれない。毛むくじゃらの前足で顔を掻いてみるけれども、気分はちっとも晴れなかった。
海が大好きな、御姫様みたいな女性だった。思わず、冷たい海に向かって一歩を踏み出した。二歩、三歩と進むにつれて、脚だけでは無くて尻尾までずぶ濡れになっていく。飛沫が目に飛んだせいで、少しヒリヒリとしたが、そんなの些細な問題だった。
この波に融けるように、泡となって消えてしまえば、もう一度ぼくはあの女性に会えるだろうか。
「みゃあ」
意を決したような短い声だった。誰も聴衆など存在しない中、届いて欲しい誰かに届きますようにと、鬨の声はさざなみの向こう側へと消えていった。