お題⑥「鈴、泡、青色」
「ヘブンリーブルー」
周りは黒で、私は青なんだ。茫漠と、そう思った。
印刷物において、黒は絶対だ。水彩画もそう。何があろうと一番強い。何色でも、逆らえない。
きっかけは些細なことだったはずだ。多分約束をすっぽかしただとか、ノリが悪いだとかそんな事だと思う。いじめられるようになってようやく分かった。
もうどうしようもないんだって。塗りつぶされるしかないんだって。
だから、死にたいと思ったんだ。
わたしは絵を描くのが好きだ。デジタルじゃなくて、水彩画。どの色も透け合って、ひとつの絵を成す。そんな水彩画が大好きだ。
海が近い立地の我が美術部は、よくこの砂浜に写生に来る。さらりと足下を撫でる砂。裸足って心地良い。海はゆっくりと夜を写して凪いでいて、そっとわたしはパレットと筆へ手を伸ばした。風でめくれそうになるスケッチブックを抑えて、その絵を眺める。
夜の海を描いた絵だ。最後の絵になりそうなのに、完成させられない。ごめんね、とひそかに謝って、わたしはそっと海の中に滑り込む。
完成させられないのは、絵の具をこの海に流されて捨てられてしまったから。酷いものだ、いくらかかったと思っているのか。いや、そういう問題ではない。いま、どうにか見つけた色たちだけでは、海の青は表現出来ない。
この絵は、失敗だ。
そう思って、スケッチブックからそれをちぎりとる。ゆっくりとそれを海に沈めようとした時、鈴の音が不意に響いた。
「捨ててしまうの?」
続けて、透き通るような声がした。
わたしが驚いて振り返ると、そこに居たのは青い髪の少年だった。うつくしい、素直にそう思えるほどの。それも、巫女服のような青い服を着ている。まるで海のような色合いの。
死にたいと思っていたら、本当に死んでしまったのだろうか。青の髪なんて、現実にいるはずがない。今流行りの、異世界転生と言うやつなのだろうか。
「え……?」
少年の視線が、少し咎めるようなものだった気がして。わたしは、絵を流すのをやめる。すると少年は何も無かったかのように波打ち際に移動して、ゆっくりと右手を掲げた。
彼の手に握られていたのは、鈴だった。一度、神社で見た事のあるもの。神楽鈴、というのだろう。無数の組紐と鈴がついたそれは、振られる度にしゃん、と音を立てる。足にも鈴がついているのか、少年が動くとたくさんの鈴の音がする。
そして少年は、神楽を舞い始めた。なんで、わたしはこれを普通に受け入れてるのだろう。でも、有無を言わさぬ圧力の様なものが、彼から漂っている気がした。
「わ…………」
思わず吐息が零れてしまうような舞だった。きらきらと海の色を吸い込んで、鈴が煌めく。この世のものでは無いようなリズムでそれが鳴り、わたしと彼二人だけのうつくしいあおの世界が再構成されていくような。
スケッチブックを捲る。空いているページを探し出し、筆を取る。絵の具を溶かす水は、もうこの際塩水で構わない。無論筆は傷むけれど、いまはとにかく描かなくてはならない。青の絵の具を絞り出し塩水で溶き、少年を描いていく。
途中で、描かれていくその絵に致命的に足りない色があることにわたしは気付いた。でも、そんなことは言っていられない。ただ筆を走らせて、水で溶いて。
「すてきな絵だね。でも、なにかたりない。ちがうかな。」
「ッ、ハァっ……!」
いきなり声をかけられて心臓が止まるかと、そう思った。いつの間にか少年の舞は終わっていて、わたしの絵も完成に近付いていた。世界が砕け散って、どうしようもなく大量の色がある世界へ私は帰ってくる。なぜこの子はわかるのだろう。一見すれば、もう完成なのに。
「ふうん。しにたいんだ。」
唐突に少年がそう言ったのが聞こえた。それを反駁するか肯定するか、一瞬悩んでしまった次の刹那、わたしは海を沈んでいた。
「カ、っは……!」
口から泡が次々とこぼれ落ちる。状況が飲み込めないまま、夜の暗い海を、沈んでいっていた。泡が憎たらしいほど煌めいて上へ上っていく。わたしの命も、一緒に抜け出ていく。そのとき、後ろから声がした。
「ねえ。あの僕の絵、かんせいさせてくれないの?」
少年の、泣きそうな声がした。海の中だと言うのに、それはやたらと明瞭で。だから、わたしは反射的に答えていた。
「死ぬもの……完成なんて、出来ないよ! それに、もう色が無いもの……!」
「ここにある。かんせいさせて。僕の絵じゃなくても、あのうみの絵でもいいから。」
だから──いきてよ。
そう、言われた気がした。
暗かった視界が一気に開け、わたしはいつの間にか砂浜に居た。息苦しさも水濡れもなにもなくて。だけど、一本の絵の具のチューブが私の手の中にあった。
『ヘブンリーブルー』。天国のように透き通った青。この色があれば、絵は完成できる。死にたくなった気持ちは消え失せて、わたしはそっと筆をとる。
結局あの少年がなにだったのか、その答えをわたしは持ち得ない。だけれど、確かにあれは夢ではなかった。消えたはずの青と、少年の絵がここにあるから。