Re: 水が枯れた暁に……5【短編梅雨パーティ】 ( No.12 )
日時: 2022/06/09 18:49
名前: 心◆sjk4CWI3ws (ID: ErumoK3A)

梅雨パーティ参加させていただきます……! 


『月下の魔女』

 青いその瞳の奥に、儚(くら)く溶ける色が滲むのを遣る瀬なく思った。そんなこちらの気持ちを見透かしたみたいに、彼女と目が合ってしまう。窓を叩く雨の音が、次第に大きくなっていく。
 息が止まる、逃げ出したくなる、しかし少女はそれを許さないだろう。ましてや、己にそんなことができるはずがない。

「何見てるの、玲ちゃん」

 ふわ、と小さな欠伸を伴って、何事もなかったかのように問いかけがおちる。肩口よりも少し上で切り落とされた黒髪が、どこか濡れた輝きを帯びて揺れては静止した。
 ふっ、と相対する少女もまた目を伏せた。

「……なんでもないですよ、月花様」

 まるで男性のように短く切られた髪と、少女特有の硬質な高さを帯びた声。それらふたつが絶妙なバランスで混じり合って、ある種倒錯的な魅力が宿っていた。細く切れ上がったかたちのよい瞳に、少し憂鬱げな色が載る。
 そっと、テーブルの上においた手を横へ滑らせた。ごくごく淡い水色に塗られた爪が、硬い石のテーブルの上を擦る。

「でもわたしは、恨まずにはいられませんね。……だって貴女のその才能は、母君から継がれたものでしょう」

 だって、こんなにも囚われてしまう。そう喉の奥に留めた一文を、しかし月花は見透かしたように手を伸ばした。玲の華奢な手に、月花の病的なまでの白さを帯びたそれが重なる。
 白皙を誤魔化すかのように淡い桃色に塗られた爪が、窓から差し込む光に煌めいた。

「ふふ、お母様にだって人並みの幸せは許されてしかるべきよ。──結婚してこどもを産むことが、必ずしも幸せとは限らないけれど──、あんなにお母様は笑って逝けたのだもの。きっと幸せだったと思うわ」

 こんこん、と月花はテーブルを叩いた。

「そこにわたくしたちが異を唱えられるはずもないじゃない。───それにね、わたくしは感謝しているの」

 窓を叩く雨が、一層の強さを増す。
 彼女は、そう言うだけ言って、ふわりと立ち上がった。玲と月花がふたりだけで住む、広大な屋敷。その一角の部屋から、月花は出ていこうとする。
 ゆっくりあとを追いかけて、玲もまた扉を開けた。だだっ広い玄関ホールに月花の影が踊っている。次第に強さを増す雨の音が、明確に響いていた。じわり、湿気が玲の肌を蝕む。下へと続く階段は、どこか濡れているような気がして、滑らないように気をつけなければと思ったのも束の間。
 外へと続く大扉に手をかけた月花が、唐突に振り返った。

「だって貴女はもう、あたしのこと忘れられないでしょ?」

 それは笑顔だった。この国を背負う魔女ではなくて、ただの齢十八の少女だった。惹きつけられるように足を止めて、玲は息を呑む。ずっとずっと、美しい笑顔だった。
 階段の踊り場に立ってホールを見下ろす玲を、じっと見上げて。月花は、己の体を抱いた。かくりと非対称に折れる体が、どこまでも玲の目を釘付ける。

「それはきっと、お母様から頂いたこの魔力故だものね」

 優れた魔女は美しい。身体の均整が取れていて、白い肌と艶めいた髪を持っている。それはどうやら体内の魔力故らしい。それで幾人が魔女の虜になっただろう。そして彼女らは、ただ美しいだけではないのだ。
 正しく魔性の女ということか、と玲は嘆息した。

「ええ。……月花様は美しい。そして魔法の才もある。わたしはずっと、囚えられて目を離せないのですよ」

 素直な告白に、月花はすこし照れたように微笑んだ。その無邪気さに、また一段と玲は引き込まれてしまう。

「あたしや玲ちゃん、国のみんながお母様を忘れなかったのと同じように、あたしのこともきっとみんな忘れないわ。だったら、全部価値はあったもの」

 きらり、と月花の瞳の奥に光が宿った。突き抜ける青色が、かつてない輝きを帯びる。それをひとは覚悟と呼ぶことを、そのとき玲は悟った。
 そして、扉が開かれる。
 はっ、と我に返った彼女が、慌てて階段を駆け下りた。

「待って、待ってよ月花……! わたしを置いていくな、つきか!!」

 半ば怒鳴るようにして、彼女もまた大扉から外へ飛び出す。雨が強く打ち付けるのにも構わず、月花の後を追って走り出した。
 薔薇園の迷路を折れていく。きっと月花が向かう先はわかっていて、だからか彼女も玲のことを撒くつもりなど端からないようだった。

「なんで、もう終わりなのか? わたしがずっと月花の隣にいるから、いやだ、わたしのことひとりにしないで、つきか……ッ」

 走りながら、まるで希うように俯いて、玲はそう呟いていた。

「いつか散る花に願いなんて通用しないの、玲ちゃん。……ずっとわかってたでしょう?」

 どこからか取り出した箒で、低空を緩やかに航りながら。当代一の魔女は言う。長いローブが風に舞って、水を吸って邪魔になったのか、ロングブーツが脱ぎ捨てられた。
 曰く、魔女は梅雨の季節に散る。薔薇が春の終わりに咲いて、梅雨の雨で枯れるように。
 月花の母、【蓮華の魔女】と呼ばれた彼女もまた、ちょうど十年前のこの時期に亡くなっていた。それはどうしようもなく変えられない運命であって規律だったから、玲もそれを受け入れているはず。しかし、こんなにも。こんなにも、狂おしい。
 この世界の神を相手取る勇気が湧いてくるほどには、玲は月花に魅せられていた。

「わたしの役目はもう終わりだもの。──継承は神が勝手にやってくれるから、もうあとは散るのみかな」

 ただ、きっと月花はそれを許さないだろう。ただ生きろと呪うだけ。まだ雨は降りしきっている。
 玲の瞳の先で、ゆっくりと箒が高度を下げた。薔薇園を抜けて少し先にあるところ、それは小さな丘だった。濡れた雑草が素足を叩くのも構わずに、月花はその上に降り立っている。
 少し遅れて玲がそこにたどり着けば、ふわりとくずおれるように月花は彼女に体を預けた。すとり、玲がそのまま地面に座れば、二人して身体を濡らしながら目を合わせる。
 半ばお姫様抱っこのような体勢で抱え込まれた月花は、もう殆ど目を開けていなかった。

「ねえ、玲ちゃん。わたし、ずっと恋をしていたわ」

 丘の上、それは墓地だった。幾代もの魔女がその命を散らしてきた場所。その身体に巡る魔力故、短命の彼女らを看取ってきた墓場だった。
 簡素な白い石に名前を彫り込んだだけの、母の墓標に手を触れて、月花は微笑む。滑り落ちる雨は、ただ二人の身体を冷やしていくのみ。
 しかしそれを差し置いても、月花の手は冷たすぎた。彼女の手を取った玲が、思わずそれを強く握り込んでしまうくらいに。

「わたしもだよ、月花。ずっときみは、わたしだけの魔女様だった」 
 
 ぱきり。彼女の華奢な手に、罅が広がっていく。まるで陶磁器が割れるみたいに、一切の血すら溢さず砕けていくのだ。
 風にさらわれては消えていく。
 かすかに玲が息を呑んだ。身体のうちを巡る魔力の、その強大な内圧に耐えきれなくなって、身体が崩壊しようとしているのだ。そんなことが分かっても、それを止められる術など持ち合わせていない。
 ふふ、とかすかに吐息をこぼすように笑った月花は、満足げに目を閉じた。海に攫われる砂みたいに、彼女の身体は風と雨に溶けていく。服がぱさりと地面に落ちて空洞を知らせ、髪がゆるやかにその質量を失っていった。
 ああ、とひそかに声が落ちていた。
 散り際すらもこんなに美しいのなら、これを見る者が己だけで良かったと、そう思ってしまったから。ずっと毎年梅雨を恐れて、こんなにもどす黒くて流してしまいたい感情に囚われたのは初めてだった。
 独占欲と名のつくものが渦巻いては、完全にかかる重さを失った腕による喪失感が上塗りされる。
 
「さようなら、【月下の魔女】。……ばいばい、月花」
 
 玲がそう、曇天へ向けて声をかける。幼馴染であり自分の主であり、そして神様だった彼女へ。